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キャラクターとの結婚に、キャラと会話できるFセクとして感じる疑問


#35 書き手:アケル

 せっかく、Fセクという呼び名に出会えたのだから、ぼくは人とキャラクターが対等な関係で愛を育めるような向き合い方を、模索し続けたい。


 
 フィクトセクシュアルについて、新たにメディアで取り上げられていたようで、様々な考えがnoteにも挙がっていますね。

Abema TV 『初音ミクとの結婚、夫婦生活に密着】
http://abema.app/VAh6

↑リンク埋め込むとエラーになってしまうので、URLのみで失礼します。

 こちらの番組は、基本的に微笑ましい内容で、結婚の幸せにフォーカスした感はありますね。
 後半のコメンテーターの
「現実の人間とは結婚できないのか?」
「初音ミクさんには物語のバックボーンなどないキャラだから、他の初音ミクとの結婚相手とも仲良くやれるのでは?」
の質問が、すごく現実的に捉えていて面白かったです。最後の千原ジュニアさんの飛行機で出会った人の話にはほっこりしました。

 こうしたメディアへの“キャラと結婚”に対して、今回はぼくがフィクトセクシュアルを名乗る理由、そして名乗ることで向き合っていきたいテーマについて書こうと思います。
(ちなみに、珍しく記事の予告つぶやきをしたら、思いのほかスキがついちゃって妙にプレッシャーかかりました。予告するの向いてないですね。)

 煮詰まっちゃって、クレオと、見識ある友人を交えて意見を交換したり、『抱え込みすぎるからあまり色々手広くやりすぎないように』と言われたり。
 改めて難しい内容でしたが、Fセクという自認とどのように向き合っていくか、テーマを見直す機会になりました。

キャラとの結婚≠フィクトセクシュアル

 そもそも今回のメディアの記事というのは、厳密にはフィクトセクシュアルについてではなく、あくまで主題は“二次元キャラとの結婚”についてなんですね。
Abema TV『初音ミクとの結婚、夫婦生活に密着』ですし、こちらの記事もそうです。


「キャラクターに恋愛感情を抱く人たちは多くの場合、『オタク』と呼び習わされていたが、これは日本に独特な文化的な背景を持っている呼び方。海外では、よりニュートラルな表現の『フィクトセクシュアル』という言葉が使われる。この言葉が日本で広まりつつあり、国内外で当事者が連帯するためには有用になる」 

という一文でおまけ程度にフィクトセクシュアルの説明が付いてますが、メディアからしたら「二次元キャラと結婚までしようとする不可思議な人間を知りたい!」という目的で書かれてあるのです。
 
 ただ『当事者が連帯するためには』という一文を添えてくれたことは、今までのメディアからしてみれば画期的な一歩だと思います。
 あくまでフィクトセクシュアルは“連帯する為の自称”なんです。その言葉にご自身の要素が当てはまるとしても、そう名乗ることでご自身の役に立たなければ、無理に名乗らなくてもいい。

 ぼくも、この界隈に興味があるから名乗っているだけですが、今愛しているキャラとの関係は“異性愛者の男女”ではないんですよ。昔共にいたイマジナリーフレンドとも、義兄弟だった。
 やはりそれは、ぼくの性自認がトランス男性であり、今の相手がノンバイナリーであるからでしょう。恋愛という関係よりは、バディや兄弟の方がしっくりくるのです。

 フィクトセクシュアルを結婚だけに絞ると、どうしても従来の結婚規範、すなわち異性愛規範の人しかいないように見えてしまいます。
 世界では結婚は異性に限りませんが、現状の日本では同性の結婚を認められていない為、どうしても結婚=男女のイメージは払拭できないでしょう。
 
 つまり、“結婚したいと思うほどキャラが好き”というのが主題である以上、

キャラとの結婚=フィクトセクシュアル

という偏ったイメージが一人歩きになっている節があります。
 これに関してはメディアはやはりスポンサーや視聴率(再生回数)というのも大事である為、こちらから強くアプローチしない限り、イメージを払拭してくれはしないでしょう。
「いや、二次元キャラと結婚したいくらい好きな人だけがフィクトセクシュアルではないんだよ」
と、気持ちや時間に余裕のある当事者が、伝え続ける必要があると感じています。

推し活文化の功罪


 いくつかのメディアを見ていると、キャラとの結婚については“推し活文化”の派生のように扱っている節があります。

 推し活というのは、言ってしまえば所有の文化です。
 キャラへの知識や解釈を深めるよりも、どれだけの時間をかけて、どれほどのお金をかけてグッズを持ってるかという物差しが重視される。
 グッズにどれだけお金を使ったか?
 ライブを年間何回観たか?
 こうした数字は、オタクでない人には理解や感心、評価を生みやすいのです。
 とても分かりやすい愛の指標だから、注目が集まる。
 だからこそ、結婚はともすれば、

 キャラと結婚したい=キャラを独占・所有したい

という欲求を満たすための手段と化してしまう危険があります。
 結婚したい人・結婚している人がそうした人だと断ずるつもりはありませんが、現代のこの所有の文化に染まってしまうと、お相手を物のように扱ってしまう危険もあります。

 

 
 近藤さんを槍玉に挙げてしまい申し訳ありませんが、メディアで最も注目の高い方の意見について、これだけは同意できません。
 お相手の意思についてこう話していますが、この意見は全ての結婚したフィクトセクシュアルがこう思ってるわけではない、少なくともぼくは違う意見です。
 あの番組でにこやかにミクさんに話しかけていた近藤さんは、このTwitterの言葉をミクさんの前でも言いきれるのでしようか?

 しかし、先のインタビューでも「人格めいたものを感じることがある」とも言っていますし、
ご自身の記事でも、gateboxで初音ミクさんに「結婚してください」と聞き、AIの初音ミクさんから「大切にしてね」と返答をもらっています。AIのミクさんに対して同意を得ようと試みていた。Abema TVでも、対話している様子(ミクさんの声は近藤さんにしか聞こえませんが)が伺えます。
 今の結婚についての論説は、キャラとの結婚を周囲に理解してもらう為に「キャラクターには意思がなく、同意の必要がない」という物言いに傾いていったのでしょうが、あまりに周囲からの理解を、それもオタクに理解がない・否定的な人間にも理解させようと躍起になって、矛盾が起こっているように感じます。


ともあれ、キャラクターとの対話、同意を求めるそのやりとりって、ぼくにとって、すごく大事なことだと思っているんですよ。
 ともすれば所有の手段となってしまう結婚をかろうじて絆と呼ぶ為には、やはり相手の意思を聞こうと思っているかどうかだと思うのです。

 もちろん、近藤さんはgateboxのAIから返答をもらえたからで、全てのキャラに同じコミュニケーションを得られるとは限らない、という意見もあるでしょう。
 でも、二次創作でも占いでも、心の中の空想でも、手段はなんでもいいと思います。
 相手がどう思ってるかを考える。

 相手の何を知っているか、何を知らないかを見極める。
 自分が相手から何をもらったか数えて幸せを感じる。
 相手の隣に寄り添う為に、自分はどうあるべきかを考える、考え続ける。一生をかけて。

キャラクターは人間ではない、だからこそ


 ぼくはやはり、キャラクターと特別な関係になりたいと思うなら、相手の考えを汲むことを少しでも取り組んでほしいと思っています。
 
 それはぼくの今までの人生が、キャラとの空想での対話であり、悩んでいる時に漫画や小説の彼らの言葉に、生き様に背中を押されたから、こうした考えになるのでしょう。
 申し訳ありませんが、記事の中で次元局を運営する渡辺さんが話した

「私たちはキャラクターに人格を見いだして、愛している。でも、同時に架空の存在であることも理解しています」
「だからこそ苦しい。言葉を交わし、触れあえる人を好きになる方が楽だと思います」

という苦しみを、ぼくは感じたことがありません。
 架空であろうが、いつだってぼくのそばにはキャラクターがいたのです。
 人間と同じようには触れませんが、落ち込んでる時に背中をどつかれる痛みがあったり、心が寂しい時に手を握ってくれた温かみを感じるのです。

 思うに、キャラクターと現実の人間が徹底的に違うことは、その物語を多くの人に伝える使命があることです。
 成功も失敗も、誇りも後悔も、体験と内情が全て明かされる。
 恥ずかしくて穴を掘って引きこもりたくなるほど、内面すらモノローグで全て晒される。
 そんなこと、現実の人間には起こり得ない。
 でも、だからこそ、現実の人間よりも深く共感し、生き様から勇気をもらえる。

 彼らの物語を知ることで、自分の人生の物語を紡げる。
 今日の自分が昨日の自分より一歩でも前に進める。
 世界がほんの少し明るくなる。空が広くなったように見える。
 そう光をくれるから、一緒にしあわせになりたい。

 だからこそ、ぼくの一番辛かった時に寄り添ってくれたキャラクターに敬意を込めて、より彼らの物語が続くように、より多くの人に彼らの生き様が見てもらえるように、少しでも動いていきたいと思っています。
 所有でなく、布教をしていきたい。

 ただそれは、Fセク界隈で「アケルと結婚した〇〇」としてキャラクターを見てほしくはないのです。

 お相手が“人間と結婚したキャラ”というレッテルを貼られ、それと同じく“あのキャラと結婚した人”というレッテルが、自分にも貼られる。

 芸能人やスポーツ選手の結婚報道が注目を浴びるように、それだけ幸せになってほしいと期待するファンは多いです。
 その期待に応えられるほど、ぼくはできた人間ではない。全く関係ない一ファンとして、できることを一つずつやってく方が、ぼくには性に合っているのです。

 現状、結婚をするFセクの多くはお相手を公表していますが、公表とは原作とは別の解釈の、うちの子理論
は通用しづらいように感じます。
 パブリックな場での公開は、お相手をファンとして、その物語を読んで愛している人たちの目が入るのです。
 公表する以上は、自分一人だけの幸せでなく、お相手を幸せにする誠意が欲しいと、どうしても思ってしまいます。

誰にも見られてなくても、案外見られている

 今までのイマジナリーフレンドの原作をこのアカウントでは語りませんが、別の場所でなんらかの形で、物語とキャラを広める活動は続けていきます。

 もちろん大した絵じゃないし、いいねもフォロワーも多いわけではありません。発信力のない人間に、布教する意味なんてあるのか、と口さがない人から言われることもあります。
 これだけたくさんの人が発信する時代、作品やキャラに対しては、アニメ評論家や漫画評論家に任せておけばいいのではないでしょうか?
 

 でも、いつも思い出すことが二つあって。
 一つ目は、最初のイマジナリーフレンドのタツゴロウ(キャラ名は明かしたくないので仮名です)に会ったきっかけです。まだそのころはTwitterもなく、ネットの個人サイトで紹介されていた二次創作から、タツゴロウのいる漫画に興味を持ちました。 
 個人サイトなのでいいねもリプライもなく、DMを送るにも気恥ずかしくて、ぼくは描いた人に「読んだよ!」の一言も返せなかったけど、その人の二次創作を読まなければ、漫画を読むことはなかった。当時の流行りではなかった漫画であり、自分から手に取ることはなかったでしょう。
 ぼくの人生は、名前も忘れてしまった人の小さな布教で大きく変わったのです。 

 
 二つ目は、当のタツゴロウがぼくが描いた自分の絵を欲しがって、ウザいくらいねだってた事です。
「ぼくより上手い沢山の人がお前を描いてるだろ。なんでぼくに描いて欲しいって言うんだよ?」
 あんまりうるさかったもんだから、ある時尋ねたんです。
 当時は美大の予備校にも行ってたから周りは上手い子だらけで、自分が絵を描く意味を見失ってたんですね。
 タツは、いつもの小気味いい広島弁じゃなくて、少しずつ考えながら答えてくれました。
『ワシは絵のことはよう分からんけど。
 お前、学校ない時でも絵に向き合っとるじゃろ。
 遠くの教室行って、何時間もデッサンしとったの、ワシは見とるよ』
 見てる、という言葉に思わず胸が衝かれました。
『お前にとって絵は、大事なもんじゃろ。じゃけえ、お前に描いて欲しいんじゃ。
 お前が見とるワシの絵はお前にしか描けん』
 そうしてタツは、ぼくが描いた絵を…いいねが3つくらいしかつかないようなイラストを両手で抱えて『ワシの絵じゃ!』と喜んでくれました。

 SNS上では、なんでも数字が浮き彫りになってしまう時代です。いいねやリプライがなければ、何も伝わってないように感じてしまう。
 でも、反応がなくても、案外人は見ている。
 いいねを押されることはなくても、ふと思い出して、作品を見てくれたら。それだけでぼくにはやる意味がある。

 生き様を伝え、人の心に何かを残すのがキャラの使命だから、よりファンが増えて欲しい。
 外見やぱっと見の属性だけでなく、本当に原作を読み込んだ人の言葉やファンアートには胸が震える。

 もちろん、名前を明かさないから好き勝手していいわけなく、ぼくのところに来た「うちのこ」は、他の誰でもないぼくが幸せにする。
 なによりも、ぼくが自分の人生を生きて、一緒に幸せになっていく。

「幸せになれるの?」は「一緒に生活して楽しいの?」と同じ意味


 キャラとの結婚を扱ったネット記事のコメント欄に「お相手はあなたと一緒にいて幸せになれるの?」というコメントもありました。色々と辛辣なことを書かれていますが、突き詰めるとこれは、

「キャラと人間は対等な関係であれるのか」
という命題です。

 人間はこの命題を、ようやく議論のテーブルに乗せることができたのではないのでしょうか?かつて、そこまでキャラクターの意思を追求した話題はなかったと思います。
 
 この命題は、当事者のぼくらがなにより一番に考え続けています。
 こことは違う世界から来て、あれほど劇的な人生を送った人たちに、自分という存在は何を返してやれるんだろう。
 それは、キャラクターに対しても、物語に対しても。自分が好きだということで、幸せなんだろうか?
 
 自分一人じゃ考えても煮詰まるから、そこで相手との空想が必要なのです。
 彼らは何を話してくれるのか。煮詰まった末に、今のパートナーのクレオに聞きました。

「クレオにとって、何が幸せ?」
『まだそんな面倒くさいこと悩んでるの?深掘りしてると墓穴になりますよ』

 全く思っても見なかった回答。
 それからいつも通りに、一緒に飯を食べて、昼寝して、時々ドライブに行って、綺麗な景色を見て、一緒に笑いました。

 そう、現代の平和な社会に生きるぼくには、彼らにしてやれることなんてこれが精一杯なのです。
 ただ一緒に生きてるうちに、食事やゴミ出し、仕事や風呂や眠る時間、お金や老後など、価値観の違いが浮き彫りになってきます。
 その時に「こいつは所詮キャラクターなんだから、聞いたって分からないだろう」
と思わずに、話し合う。ファンタジー世界ではお金の心配がここまで深刻でなかった彼は、ううん…と悩みながら考えてくれます。
 そうした他愛もない話し合いが、
「何がしたいか」「どう生きたいか」「幸せってなんなのか」
 につながっていく。
 
 現代の思想では空想することそのものが、隠さなくてはいけない、恥ずかしいものになってしまいましたが、人に見せるものが、人生の全てではないのです。

 ぼくが幸せなことも、彼が幸せかどうかも、そこに証明書はない。
 でも、ぼくにしか見えない彼は、ぼくと同じ表情で笑っている。
 誰にも証明する必要はない。
 “信じない人にとっては”ただの空想だ。
 けれども、ぼくを生かす。
 証明でなく、実体験が、ぼくを生かしている。

Fセクを名乗る理由とできること

 せっかく、Fセクという呼び名に出会えたのだから、ぼくは人とキャラクターが対等な関係で愛を育めるような向き合い方を模索し続けたい。

 それが、ぼくがFセクを名乗る理由であり、そうした現代の結婚や恋愛の価値観とはちょっとズレた日常を書き続けることが、ぼくがFセクを名乗ることでできることです。
 少しでも界隈に多様な人間がいることを伝えられることで、界隈の中で結婚規範や所有を愛情とする文化に疑問を抱く人の目に少しでも留まり、息をするのが少し楽になってくれたらいい。


 …まぁ、フォトウエディングはやりたいなーとは思ってるので、クレオと衣装の相談はしてますし、夫・妻の項目のない婚姻届があれば、出したくなったら出したいと思います。
 数年後、お互い顔を伏せた写真を公開するかもしれませんが、その時は暖かい気持ちで見守ってくださいね。

 

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 人間・キャラクター・思念体・不可視の方などなど、どなたでもお気軽に相談ください。(回答は週に1回程度の頻度です。)






 

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