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雑記:5

SMプレイについて。

学生の時にとても面白い話を聞いた。心理学の授業だった。究極のSMプレイとは一体なんだと思うか?という問いだった。はっきり言ってよくわからなかった。

先生は次のようなことを言っていた。

「Sの人はMをいじめたい。MはSの人からいじめられたい。Mの人は暴力的な何かを求めている。そして、Sの人はその望みを叶えている。こういう関係性があるはずだけれども、これは本当にSMプレイと言えるのだろうか。つまり、Sは望みを叶えてしまっている。これはMからすれば思惑通りなのである。私は、望みを叶えてやらないことがMの人にとって最も苦痛であるはずだと考える。欲しいものを与えてやらないわけだ。望みが叶えられないMの人は苦しむ、その様子をSの人は望まないのだろうか。つまり、何を言いたいかというと、互いに何もしないことが究極的なSMプレイなのではないかということである」

私は、なるほどと思った。そう考えると、私たちの日常は究極のSMプレイの場であるのかもしれない。Mの人にとって究極の苦痛とは、望みのものが与えられない瞬間である。それがすなわち、放置されている瞬間である。

苦痛とは何か。痛みは果たして苦痛と言えるのだろうか。価値の転倒が生じている。一般的に痛みは苦痛である。しかし、Mにとってそれは快感である。言い換えると、苦痛を与えられることが欲求充足につながっているということである。Sはその欲求充足に加担しているということになる。

もっと考えてみると、Sは苦痛を与えることを欲している。Mはその欲求充足に加担している。先述の究極のSMになると、SもMも欲求充足はなされなくなる。

不思議な事実に気づく。それはSとMの関係性が逆転しているということである。何もしない状態が発生することで、それぞれの欲求は満たされない。

Mは苦痛を与えられず苦しむが、その状態はSをも苦しませている。つまり、Sは苦痛を与えることができずに満たされない。満たされないことはSにとって苦痛である。見方を変えると、MはSに苦痛を与えていることになる。何もしないことでSはMに苦しまされることになる。

では、Mは与えられない苦痛を楽しんでいるのだろうか。これについては全くわからない。おそらく、楽しんではいないと思う。実際どうなのだろう。

私は、ふと思いついた。そもそも、「与える」ということが欲求充足のためのキーワードなのではないか。何もしない状態が与えられることで、SもMも苦しむわけだ。さらに考えると、実は誰も皆Mなのではないか。SはあくまでもMから派生した概念なのかもしれない。

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