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雑記:12_幸せについて

幸せについて。幸せとは一体なんだろうか。最近考えることが多い。それは、欲しいものが身の回りにある状況だろうか、あるいは何事も快適な状況だろうか。これらの問いから幸せについて類推すると、つまり幸せとはモノではなく、状態である。幸せを追い求めるということは、そういう状態に身を置くということである。では、幸せというラベリングがされた状態がどこかにあるのだろうか。まるで天国のような。

それも疑わしい。どんな人々も幸せになれる状態がとてもあるとは思えない。例えば、動物好きの人がいたとして犬に囲まれていることが至上の幸せだと考えている人と、動物アレルギーの人が考える幸せは別のものであるはずだ。そう考えると、何か絶対的な状態はないといえる。

ところで、至上の幸せを感じる状態は与えられるものだろうか、それともなんとかして手に入れるものなのだろうか。これについてもよく考える必要がある。結論から言ってしまえば、幸せとはなっているものである。なぜならば状態だからである。与えるとか手に入れるとかいう発想はどうしてもモノを連想せざるを得ない。以前、SMプレイについて考えた時、痛みや苦痛を与えるといった表現をした。厳密にいえばそれは間違っているかもしれない。痛みを感じる状態にする、させられるといった表現が正しいだろう。

では、幸せな状態にさせられるということはあり得るのだろうか。それも非常に疑わしい。させられるという以上、誰かが私の幸せな状態を完全に把握している必要がある。おそらくそれは不可能である。私の主観を他者が一寸の間違いもなく把握するということはできない。幸せにする、という場合はどうだろうか。この表現はもう少し詳しくいえば「私が私自身を幸せにする」ということになる。これはすなわち幸せになっているということである。

しかし、どうすれば私は私自身を幸せにすることができるのだろうか。他者は絶対に私の思い通りにはならない。思い通りにならない人々が周囲にいる以上、幸せな状態を維持することは難しい。では、完全な孤独を作り上げることができれば幸せだろうか。誰にも一切干渉されない世界は果たして幸せだろうか。完全な孤独などあり得るだろうか。例えば、どこか山奥に一人でこっそり自給自足する生活を送れば幸せだろうか。その人は幸せかもしれない。しかし、そういう生活をするためには誰かの存在があったはずだ。そもそも、その人は誰から生まれたのか。あるいは、その生活の知恵はどこから湧いてきたのだろうか。突如大人として、山小屋の番人としてこの世に出現したのだろうか。そんなことはあり得ない。したがって、完全な孤独という状態は存在し得ない。多かれ少なかれ、人と関わらざるを得ない。

幸せとは状態で、それは相対的なものである。そして、思い通りにならない人々の中でその状態を感じられるようになる必要がある。何かを感じるとはどういうことだろうか。幸せを感じる瞬間とは一体いつなのだろうか。例えば、今幸せを感じたとして、その今はすでに過去になる。今という時間の捉え方は人によって違うだろう。10秒間を今と感じる人もいれば、数時間を今と感じる人もいるだろう。そもそも状態とはなんだろうか。状態が成立するためには時間と空間が必要になるだろう。それらに対して私たちは幸せという名付けを行っているのである。そして、その名付け行為は個人的なものである。つまり、幸せとは印象である。そして、その印象は現れたり消えたりする。では、幸せな状態とはそう感じる瞬間の積み重なりなのだろうか。しかし、その回数を数えることなどできるのだろうか。この数秒間幸せだったといちいち考えるだろうか。そういうことをしている人は多分幸せではないだろう。

視点を変える必要があるかもしれない。幸せが印象である以上、それを感じるための準備ができていなければならない。つまり、ある状態に対して幸せを感じるための感性が必要であるということだ。その感性は、思い通りにならない状態のなかで培われなければならない。そのため、なんでも思い通りにできる状態を追い求めるということは幸せにはならない。それは、さっき食べたカレーをスパゲッティだったことにするのと同じくらい不可能なことである。

そこで私の考える幸せとは、ある状態に対してそう感じられるための感性を培うことである。そして、その感性が働いている瞬間こそ幸せな状態であるといえるし、幸せになっていると感じることができるだろう。自分で書いていてあまりにもつまらない結論だと思う。こういう話をすると、お前だけ幸せになるのはおかしいじゃないか、という人がいる。でもそれは間違っている。なぜならば誰にとっても共通の幸せなどないからである。お前だけが、という発想を持つ人はまだ誰しもが幸せになれる状態があると思い込んでいる人である。もし仮に、皆が幸せになっている状態があるとすれば、それは皆が幸せを感じられる感性を獲得した時である。しかし、おそらくそういう瞬間を目の当たりにすることは不可能である。何故ならば、幸せな瞬間は各人にバラバラにやってくるからである。


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