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書くと時間のふしぎな関係

書くことにまつわる苦い思い出をいくつか持っていて、現在進行形で大苦戦(!)しているのですが、ここ数年、それでもやっぱり「書くっていいな〜」と思うことが増えてきました。

それは、生きることとの相互作用で、人生においてくり返し出会うテーマや価値観みたいなものにふと気がつく瞬間です。

1行書くのにとてつもない時間がかかる

書くことにまつわる苦い思い出というのは、高校時代の「将来の夢」をテーマにした作文と、大学時代の卒業論文のことです。

「将来の夢」は課題として出されたのですが、なんと、時間内(50分)に1行も書くことができませんでした!

放課後に居残りまでして、それでも全く書けず。家に持ち帰ってなんとかかんとか終わらせましたが、どうして自分はこんなに時間がかかってしまうのかと大変落ち込みました。(いまも結構あります・・・)

大学のときの卒業論文は、とにかく期限内に書き上げることに精一杯でした。他の人みたいにこつこつ積み上げてきたものも特になく、字数をがんばって埋めただけの、ひどい仕上がりです。

いまでもたま〜に「大学のときは何を研究してたの?」「卒論何書いた?」なんて尋ねられることがあるのですが、ひたすら苦笑いをするしかありません。

そんなわけで、わたしの中には書くことへの苦手意識がこんもりたまっています!

忘れたかったテーマとの再会

ところが、近年、仕事をしていてふとこういう瞬間がやってくるようになりました。

いまの自分がしていることって、あの卒論に書いたこととつながっている!?

卒論のテーマは「芸術は現代人の無気力・無感動・無感覚を克服できるか」みたいなことでした。

現代アートの特徴として、双方向性のあるものや、観客に身体的な動きを生じさせるものが増えている。
それは、世の中がだれでも・どこでも同じ体験ができることを良しとして利便性を追求してきたために、いま・ここのかけがえのない体験が希薄だからではないか。(マーケティングによる意識と身体のコントロールを批判)
芸術なら、いま・ここのわたしに固有の体験や意味をもたらしてくれるのではないか。

大ざっぱに書くとこんな感じの論旨です。テーマだけはやたら壮大。字数を埋めるのが大変だったな〜。

その論文を書いた十年後のいま、学校説明会などで「なぜ子どもを電子メディアに触れさせちゃいけないの?」という質問に対して

子どもが商業主義のターゲットになることを避けたい
せっかく自ら生み出す力や想像力が豊かな時期なのに、その力を弱めるようなものに触れさせるのはもったいない。TVやYouTubeなどは特に意識や身体を受動的に拘束する性質があるので、注意が必要。

などと答えている自分がいます。

そして、あとはもうど直球で、芸術の力を多分に借りて生命力に働きかける授業をしていたりとか。

おもしろいのは、当時はそれが仕事になるとは思ってもいなかったし、むしろはやく忘れたかったということです。

忘れていた期間=寝かせていた時間は10年近くですが、あのときに立てた問いや関心はちゃ〜んと水面下で生き続けていたのですね。

まだ32歳、これからどうなるかわかりませんが、生涯こういうテーマからは逃れられない予感がします。

いつかの自分への仕込みとして、いまを素直に綴る

そんなわけで、「うまく書けなくてもいいから、いましか感じられないことを書き残しておこう」と強く思います。

何が重要な問いなのかは未来の自分が見つけてくれるはず。だからいまは安心して忘れる(寝かせる)ためにも、とりあえず書いてしまうんです。

同じゼミに「読む」という行為そのものについて研究している人がいましたが、きっと「書く」ことにもそれに値するくらいの秘密が隠れているのでしょうね〜。

書いたり、忘れたりしながら、その秘密に迫ってみたいと思う今日この頃です。

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