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寂しくないこと。手の仕事。

昨日のこと。

「ペンケースが汚れてきたから買いに行く」と夫が言うので、「ちょっと待ったーーー!わたしに作らせて!」と頼み込んで、手仕事チャンスをいただきました。

飾りっ気のないシンプルなペンケース(マチ付き)

表布に使っているのは、日暮里繊維街の安田商店さんで購入した木綿布。使っているうちに色が落ちて、明るいブルーに変わっていくところがお気に入りです。ちなみに、ファスナー(118円)以外はすべて、うちにあった材料でできました👏

「今度から布系のものは全部作ってもらおうかな!」

夫もよろこんでくれたようです。

さて、わたしは、身の回りのものを自分でつくっていることが多くて、週の半分以上は手作りの服を着ています。

「それも、自分でつくったの?」と聞かれて、「はい」と答えられない時は、ちょっと悔しいですね。笑

きっと既製品を買うときにも、そこはかとなく一点ものの空気が漂うものを選んでいるのだろうな〜と思います。

なぜ、一点ものや手づくり感にそこまでのこだわりがあるのか。

ASC水瓶座だから?

それもあるかもしれませんが、「大切にされている」「わたしはここにいていい」という感覚を求めているのだろうな〜と思います。

「わたしは世界に必要ない」「世界はわたしと無関係に進んでいく」という、呪いのようなことばと共に、いつも漠然とした疎外感を抱えているからです。

この、漠然としたアウトサイダーの感覚は、もしかすると現代の病なのかもしれません。

いつでも・だれでも・どこでも 同じ体験ができることを目指して進んできた社会。〈わたし〉は、そもそもユニークでかけがえのない存在なのに、それを実感する機会が、いつのまにか乏しくなってしまいました。

(実は、学生のときにも卒業論文でこういうテーマを扱いました。)

そんな心の危機に気付いた人たちが、アートや自然の側から運動を起こし、オルタナティブな生き方を提示してきたここ十数年。

自分で仕事をつくって生きている人や、衣・食・住の自給自足を目指す人。小さくてもできる限りでそれを実践する人。

少なくともわたしの周りには、こういう人たちが多くなってきたな〜と感じています。

〈かけがえのなさ〉や〈唯一性〉の希薄さには、芸術活動が有効ではないか。

当時、卒論ではこう結論付けましたが、
(現代美術のゼミに所属していたというのもあって)

今のわたしは「手の仕事」が有効だと言いたいです。農業や手工芸、芸術活動を含む、ひろ〜〜〜い意味での手の仕事。手で何かつくること。

それは生活と密接に関わっているもの。世界と関わりを持つ手段。世界との共同作業。

手で何かつくっていると、素材や自然の言い分というものが、だんだん聴こえてくるような気がします。それは「寂しくないこと」ではないでしょうか。

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