ロールキャベツとホットワイン(短編小説)
何処かの方角が少し明るい、そしてそれは仕事を終えたのだから西のはずだ、と僕が気付いたのは、雨戸を開けたままのアパートの薄暗がりの中にいたからだった。
君が帰ってくるまでにかなり時間がある、君は最近はやっと見つけた医療系の職場でカルテが電子管理になる変更があるのでその業務に当たらなくてはならないと残業が続いている。
地方ではまだカルテを手書きだったのか、と僕は少し驚いたけれど、それを言うにも、君は慣れないでいるさして興味のない仕事に疲れた顔をしていて、その話を打ち切りにした。
西の方が明るいのは雨戸を閉めていないからだ、と思い当たって、僕はコートを脱いでソファに置き、窓を開けた。
窓を開けると、この街に流れる潮の香りが入り込んでくる、この街に暮らすまで僕は朝と夜では海の香りが違うことを知らなかった。
僕はやはり完全に陽が沈んでからにしようと思って、雨戸を閉めることを辞めて窓を開け放しにした。
海沿いだからかもしれない、この街には関東平野に吹く空風がない、いつも少し湿った空気が身体を確かめている。
僕はソファに置き放しにしたコートをハンガーにかけた。
セーターを脱いで、霧吹きをかける。煙草の匂いが染みつくのは今の職場にそぐわないように思えたからだ。それも時間の問題で向こうがこちらに慣れてくるだろうけれど。
僕はリビングにある、この冬の為に買った灯油のヒーターに火をつけて、部屋が暖まるまでの間にシャワーを浴びた。
シャワーを出て部屋着に着替えた後、僕は一昨日の連休に僕が作ったトマトソースのロールキャベツの残りの三つの内の二つ、つい作りすぎてしまったのはそれが四人家族だった僕の実家で母親に習ったからで四人分の分量が一番美味しく作れる気がする、それをレンジで温めた。
悪くなっているか気にしていたが鍋のまま冷蔵庫に入れていたので特に問題はなさそうだった。
野菜は休日に作り置きしている、季節の菜の花を茹でてベーコンとマヨネーズで和えたものをタッパーから君がこの前買った小皿に分けて机に並べる。
何か米の類を食べようと思ったのだが、君の得意料理だというパエリアは僕が朝に出た後に君が朝ご飯に食べたようでもう残っていない。
それならばそうと言ってくれれば今晩に炊飯器をセットしていたのに、と思ったのだが、君はそれを見越していたようでしっかり三十分前に炊き上がるように炊飯器は予約してあって保温している。
僕は炊飯器から米を茶碗に入れ、ふと思い立って、冷蔵庫にまた入れたロールキャベツの鍋を取り出した。
茶碗から深皿に米を移して、鍋からトマトソースをかける、冷蔵庫から粉状のチェダーチーズを取り出してかけて、丁度ロールキャベツの温めが終わったのでレンジにかける。
レンジの音が鳴ると、即席のリゾットが出来上がっている。
僕は久しぶりにゆっくり二人で食事を取れるからと君がスーパーで買ってきて連休に飲んだワインを取り出し、ワイングラスに注いだ。
特に何もしていないのに休みにしっかり料理をすれば平日でも良い食事が取れることは一人でいつも適当な飯で済ませていた一人暮らしの時には知らなかったことだ、と机に皿を並べてワインを一口飲んで思う。
そのワインは君とスーパーに行った時、ふと気になって、じっと見つめてしまったから、君は僕が飲みたいのかもしれないと思ったようだった。
君は下戸だから知らないだろうけれど、このワインは酸味も強いし特段飲みやすいわけでも美味しいわけでもなかった。
僕がこのワインを見つめたのは、表のラベルに2021と書かれていたからで、それは僕と君が丁度東京からこの街に越してきた年だった。
あの年僕らは何を考えていたのだろう、確かに戦争は起きていたし疫病も流行っていた、何より僕らは生活の何もない無職の若い二人だった。
2021年はよく雨が降った。それは僕がそう記憶しているのもあるが、それは曖昧で、このワインを飲んで思い出したことだ。
このワインは国産のワインだが、少し酸味が強いことを鑑みるに、日光量が少なかったのだろう、ということはこれに使われた葡萄の畑にはよく雨が降ったのだった。
いわゆる、早飲み、と呼ばれるワインで、出来の悪いワインだからあまり熟成しても美味しくならないしそもそも熟成に耐えられない。
勿論この街に越してきてからの稼ぎでは熟成したワインを買うことはできない。
僕は2021年から2024年までのこの三年間を考えながら、食事を摂り、ワイン瓶を半分ほど飲んだ。
食事を摂り終えた後、このまま残りを何かチーズかで飲もうかと思ったのだが、ふと思い立ち、帰ってくる君の為にホットワインを作ろうと思った。ホットワインは温めてアルコールを飛ばすから下戸の君でも飲めるだろう。
君が疲れた顔をして帰ってきて、ホットワインがあったら喜ぶだろうか、と思うと僕はそれだけで少し心が浮き立つようだった。
その前に、と思って、君の夜の食事を皿に取り分けて、ロールキャベツの鍋やら何やらと僕の食事に使った皿を洗って布巾で拭いて、棚にしまった。
ミルクパンに残りのワインを入れ、冷蔵庫を見ると、この前に海岸沿いのベーカリーで買ったローズジャムがあった。
冷凍庫に擦って冷凍してある生姜、コーヒーに君が入れるシナモン、ローズジャム、そして少しばかりの黒糖をミルクパンに入れた。
そしてそのミルクパンを灯油ヒーターの上に置き、出来上がるのを待つ間に、少し酔いを覚まそうとコールドブリューのコーヒーを淹れた。
コーヒーを淹れて飲んでいると少し肌寒いように感じたのは、雨戸を閉めずに窓を開けているからだ、あたりは完全に暗くなって潮風の匂いはもう止んでしまった。僕はこのままでも良かったが君が帰ってきた時に寒かったら嫌だろうと雨戸を閉めて、コーヒーを飲みながら煙草を吸った。
煙草を吸い終えて、灰皿に揉み消した時、君が帰ってきた。
君はいつもの疲れた顔をしている。
僕は君からマフラーとコートを受け取ろうとしたが、君はぼうっと立って僕の顔を見たままだった。
「疲れただろう、ホットワインを作っているから、ご飯を食べたら飲みなよ」
君は鞄を置いて溜息をつきながらマフラーとコートを脱いで僕に渡した。
「ありがとう。先に飲むわ。貴方明日朝早いからもう寝るでしょう。一緒に飲みたいもの」
マフラーとコートを受け取ってハンガーにかけていると、その衣類からは確かに冬の匂いがして、僕は居た堪れなくなった。
僕は堪らず、どこか遠くに行こうよ、と言いたくなったが、それを言うにはもう年を取りすぎたような気がして、手を洗ってきなよ、インフルエンザが流行っているから、と言った。
君が手洗いを終えて席に着くと、ホットワインは丁度出来頃だったので僕は二つのマグカップに注いで机に置いた。
君は一口飲んで、小さく、美味しい、と言った。
それから、
「ごめんなさい、今日バレンタインよね、最近随分忙しくてチョコレートか何かを用意しようと思っていたのだけれど、用意できなかったの。忘れていたわけじゃないんだけれど」
僕は、
「いや、そんなのいいよ。高校生じゃないんだからそんなの小さなことだよ」
と言った。
僕は君の顔に少しの影が刺していることに気付いた。それは最近僕が見て見ぬふりをしていることだった。
僕は、仕事を変えたら、どこか街を変えようか、と何度も言おうと思ったがそれだけは言えなかった。
僕が東京に疲れたというだけで海沿いのこの街に越してきたのだから、それを言うと何かが破綻するような気がした。
「仕事が落ち着くのはいつになるのかな」
「分からないけれど春先には終わるわ。終わらせないといけないから今こんなに忙しいのね」
「なるほどね。春か。まだホットワインを飲んで美味しい季節だから分からないね」
「貴方は寒いままでも構わない?」
「いやそんなことないよ。海沿いだし、暖かい方が気持ちいいよ。桜はあまりない街だけど、君も生活が落ち着くだろうし」
僕はその話をしながらも、君の顔に刺す影をじっと見つめている。その影が僕らを強く損なう気がずっとしている。
僕はやはり堪らなくなって、
「春になったら久しぶりに東京に行こうよ。新宿御苑に行って、叔母さんにも挨拶に行こう」
と言うと、君はその影を残したままの顔で、
「そうね」
と言った。それから、
「春の約束だけでは私これからの一カ月を乗り切れないわよ」
と言った。
僕は少し取り繕うように笑って、
「ゆっくり寝なよ。ご飯用意しているから。僕はもう寝るよ」
とだけ言って、やはりそれだけでは、と思って、
「今日同僚が教えてくれたんだけど、梅が会社の先に咲いたんだ」
と言った。君はホットワインを飲み終えて、ありがとう、とだけ言った。
僕は寝室に向かって、君の寝るであろうベッドの横のシーツの皺を眺めて、この街に来る時に犬を飼う約束をしたことを思い返した。
僕は君との約束を何回守れたのだろう、破ることで自分を責めることが嫌いだから守れない約束をしないようにしているのに。
僕はワインで少し酩酊した頭で、春先の新宿御苑に降る桜の花弁のことを思い、そして君が椿の溢れた絨毯が好きだと昔に言ったことを思い返した。
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