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アネクメーネの朝(短編小説)



彼は予感に満ちた初夏の早朝、東海道線のボックス席で、ある一つの象徴的な曲を書いた。

その時期、僕は「旅」を頻繁にしていた。それは肉体的な移動であり精神的な移動でもあった。単純に、腕時計を外すこと、降りる駅で降りないこと、それが僕に出来る「旅」だった。帰る場所も行く場所も定かではない移動の中で、僕は何故か拘って在来電車だけに乗り、移動に飽きれば降りて、停滞に飽きればまた電車に乗り込んだ。降りてすることは決まって同じだった。太陽の角度が目視で変わるまで歩いてから地元の図書館に入り、どこにでもあって誰でも読んだことのある古典小説を読み、その後に地域の歴史を纏めた本を読む。それに飽きたら手頃な販売店で酒を買って飲む。飲む場所は公園だったり公園ですらない空き地だったり、あるいは林や川縁だったりした。路線が同じであれば各駅の匂いは大抵同じなのだが、それを差し置いても僕の行った街の本質は同じだった。同じように人々がそれぞれの営みを繰り返し、そのために必要なものが街にはあった。どんな街でどんな夜を迎えようと必ず暗闇に吸い込まれないようにと街灯が僕の目に映った。僕はそれに心底うんざりした。この社会で個人であることは殆ど不可能に近いのだ、と僕は思った。

 僕は「旅」に出る理由をその移動の最中によく考えた。それらしい理由は沢山あった。でもそれは僕が背を向け続けているあの街にいる理由も同じことだった。考えればいくらでも思いつく。しかし僕は「旅」の途中で自分が背を向けている物事が何なのかを忘れてしまった。学校に通っていた気もすれば仕事をしていたような気もした。恋人や友達がいたのかもしれないが顔も名前も声も思い出せなかった。そしてあるいは、現在や過去、そして未来があったのかもしれないが、それも思い出せなかった。思い出しても手遅れだろう、と何となく思った瞬間にそれらは全て損なわれてしまった。

 その朝に僕が僕の見えているものを認識した時、僕の昨夜の記憶の殆どは宵闇と共に薄れて、そこにあったのは徐々に白んでいく浅紅色の空だった。僕はいつものように電車に揺れていて、目を凝らしてみればそれが下りの東海道線であることがわかった。窓辺の小さなテーブルに半分ほどまで減ったテキーラの瓶が置いてあって、それが差し込む光で琥珀色に輝いていた。僕はそれを眺めては少し口に含み、強いアルコールと味、その香りを解釈した後で飲み干した。そしてまた琥珀色をじっと眺めた。酒が空の胃に届いて血に混じり全身を包み込んでいく。身体が気怠い熱を帯び始める。都会を離れ、そして都会へと向かっていく始発の下り電車からは小さな住宅街、微風に揺れる木々、まだ眠りについている小川が見える。そして僕はその小川で眠る淡水魚の見た取り留めのない夢のことを想った。

 僕はその朝に彼と出会った。その男は洗練された上流階級の真似事のような格好をしていた。油ぎった長髪と無精髭がスーツに身を包んでいた。電車の揺れにふらついて吊革に頭をぶつけながら、それでいて静かだが存在のある足音を鳴らしながら歩いてきて僕の席の向かい側に座った。そして僕の顔とテキーラに目をやって軽快な笑みを浮かべた。嫌味のない、屈託のない笑顔だった。

「端っこの車両からこの車両まで歩いてきたが、どうやらこの電車に乗っているのは俺たちだけらしいな。」

「ああ、そうらしい。」

 男は眩しそうに窓の外を見た後、ポケットから折れ曲がったロングピースを取り出してマッチで火をつけた。そして僕に煙草を勧めた。僕がそれを受け取って咥えると丁寧な手つきで火をつけた。僕らは煙を吐いて黙った。車内はすぐに煙で一杯になった。ロングピースはいつも美味く、そして重い。僕が代わりにテキーラの瓶を指差すと男は首を振って煙草をゆっくりと目一杯に吸い、そして長い時間をかけて煙を吐き出した。僕はテキーラを飲み、そしてそのアルコールを確かめてから飲み干した。

 僕の眺めるその男の姿は昔に何かで読んだベルベル人の生活を思い出させた。サハラ砂漠でキャラバンを組んで移動する彼らは家畜としてラクダを珍重している。ラクダが歳をとるとベルベル人はラクダが苦しむ前に殺す。そして毛皮を剥いで寒い夜を凌ぐ毛布にする。胃の中の水を飲み、乾いた糞を焚き火の燃料にする。砂嵐が来ればラクダの肋骨の中に入りシェルターにする。僕はやけに口の中が乾いて砂の味がするような気がした。男の思わせる砂漠は車窓から見える薄靄の中の木々、小川と対照的に思えた。

「何を考えている?」

「いや、ラクダのステーキはどんな味がするんだろうと思ってさ。」

「さっき、本当にさっきだが、俺はとてもいい曲が書けたんだ。知ってるか?いい曲が書けた時はな、体の中を風が吹き抜けるんだぜ。」

静かな砂漠の月夜に吹く、あまり砂を含まない微風。

「でもな、今はペンもギターも持ってないからお前に聴かせることはできないんだな、うん。ただ誰かに聴かせたくて電車の端から端まで歩いてきたんだがよ、まあいい、そのうちAMラジオで嫌というほど流れるさ。」

 男はまるで僕がいないかのように喋った。その目はしっかりしているが何も写っていないように見えた。ここではない何処かを見つめている、そんな印象を抱いた。

「しかし、テキーラの後のレモンがない、というのは寂しい旅だな。」

「僕はその代わりに途中で袋入りのトマトを買ったはずだ。新鮮で水気があって、青臭さのない爽やかなやつだ。でもそれも随分前に食べきってしまったらしい。」

「随分飲んでる。昨日の記憶がないのか?」

「ああ、まるでない。もしかしたら昨日以前も。」

 男は笑った。嫌味のない、屈託のない笑顔で。

「旅をしていると色々なやつに会うが、お前みたいな奴は大体同じ目をしている。俺は酒の類は止めちまったがな。まあ、飲みたいなら飲めよ。」

 僕は言われるがままに、従順にテキーラを飲んだ。介護施設の老人が食事をするように。血管が開いて心臓が脈打つのを感じた。脳の機能が低下して、まともに物事を考えられない。

「もう止めとけ、と言いたいが、悲しむ人間からその悲しみまで奪うのは俺のやり方じゃないな。」

「そうしてくれ。」

「だが、この社会、あるいは人生ってのは実にそうやって俺らに迫ってくるように感じないか?俺はそうやって迫ってくる何かから逃げるように、あるいは白い鴉を探すかのように、旅を続けている気がするんだ。」

「悲しみにすら出口があるのはそれ自体が悲しいことだと僕は思う。」

 男は背もたれに体重をゆっくりと預けた。

「俺は最初は何かのために旅に出た。でも何かに辿り着いちまったら旅は終わるだろ?だから旅をすること自体を目的にしたのさ。」

 男は子供が詩を暗唱するみたいに淀みなく喋った。この男はいつもこんなことを考えているんだろうな、と僕は思った。

 何かのために生きるのではなく、生きること自体を目的に生きていく。

「僕にもその気持ちは分かるつもりだ。」

 窓から差し込む日差しが徐々に熱を増してきている。男はふっと立ち上がって車窓を開けた。冷たい風が入り込んで煙で一杯だった車内の空気が澄んでいく。男はしばらく立ち上がったまま車窓の外を眺めていた。僕は目を閉じて長い時間をかけて息を吸い、長い時間をかけて息を吐いた。酔いがすっと覚めていく。気持ちがいいな、と思った。

 男は静かに座って、ジョニ・ミッチェルの「青春の光と影」を歌い出した。男の歌声はやはり静かな砂の海を思わせた。澄んでいて、風が吹いていて、どこか寂しい。あらゆる人間の営為が行われないそのアネクメーネで男は一人で歌っている。

 男が静かに歌っている間、僕は外の後ろへと流れていく景色を見ながら琥珀色のテキーラを飲み干した。そして彼が書いたという曲と、その曲が書けた時に彼の中に吹き抜けた風のことを思った。そっと歌い終えて彼は言った。

「この曲は良い。何かの両側を見るということ、そして俺らは何一つ分かっちゃいないということ。」

 男は続けた。

「俺たちは何だか同じものを求めて、同じ景色を両側から見つめているように思えないか?」

 僕は首を振った。

「わからないな。」

 男はあの屈託のない軽快な笑顔で笑った。実に楽しそうに。

「それはきっと憧憬なんだよ。そうだな、あの曲は俺たちの憧憬とお前に捧げるよ。」

 それから僕たちは煙草を吸いながら黙って外を眺めた。


 僕はその次の駅で降りることにした。男は何も聞かなかったし何も言わなかった。旅をするならば、それぞれがそれぞれの道に戻ることに何をしても意味がないことを彼は十分に分かっているようだった。随分陽は昇っている。簡易的な田舎の駅のプラットフォームには冷たい風が爽やかに吹き抜ける。僕はどこかでレモンを買おうと思った。そうだ、テキーラの後にはレモンがなくちゃいけない。

彼の書いた曲はAMラジオでは流れないだろう。僕はやがて辿り着く憧憬のその地で彼の書いた曲を聴ける日のことを思う。



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