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カリフォルニアの雪(800字小説)

彼女のことを思う夜には、僕の夢には必ずカリフォルニアに雪が降った。白昼夢が朝まで続いた朝、結露した窓を開けると薄明かりの春の靄から埃っぽい冷たい空気が部屋に入り込んでくる。今は何時なのだろう、と思う。僕の部屋には時間がわかるものなど何一つない。僕は窓辺の椅子に座り、ハイライトにマッチで火をつけてスーツを着込む。

彼女は僕の生活に現れない。僕は彼女のことを何一つ知らない。勿論彼女は僕のことも。僕は時折目に映る彼女の姿と、交わす小さな世間話で十分だった。僕は病的に白いシーツに包まれたベッドを眺める。もし彼女があそこに眠っていたら、もし僕が僕のことを話せたら、もし彼女が彼女を打ち明けて二人の話ができたら、いや単純に彼女を下の名前で呼んで彼女の小さな手を握れたら。そう何度も思った。

それは何一つ叶わないだろうことも僕は知っていた。入り口に立ってしまったならば出口を探さなければならないからこそ、僕は入り口に立たないように丁寧に気をつけて迂回しながら暮らす癖がついていた。彼女は僕の幻想のままで良かったし、僕が彼女に求めてしまったものは、彼女は僕に求めていないだろうということも十分わかっていた。僕は歳をとるにつれて感情の前に自分の視点を置けるようになった。僕の欲求など小さなことだったし、たとえ彼女が僕の理屈や理論を超えてくる素敵な女性だったとしても、やはり僕は傷つきたくなかったのだと思う。自分を変えたくもなかった。そして僕の彼女への気持ちはそれぐらいのものなのだ、ということも分かった。我慢すればやがて過ぎ去って忘れられるだろう、と思っていた。

ある日彼女が結んだ髪を解いた。僕は積り積もった落ち葉を蹴り飛ばした。小さく音が鳴った。カリフォルニアに雪が降るようなものだな、と僕は思った。ビーチが白く染まる。サーフボードに雪が降り積もる。

そうだね、いつか気持ちよく晴れるような春が来たら僕と公園に行こうよ。今まで降った雪の話をしよう。そして太平洋の向こう側の話と僕らのこれからの話をしよう。僕は今までの君にはどうやっても触れることはできないけれど、今日と明日の君が好きだし、それを確かめ続けたいと思うんだ。

僕はハイライトの火を消して、少し迷った後灰皿にではなく窓の外に吸い殻を放り投げた。僕が君の目に映る時間など僅かでしかないのに僕が君のことを考える時間は余りにも長すぎる。そしてそんな夜を過ごして朝を迎える僕のことは君には一切関係がないことだ。だからせめて雪の降らない穏やかな日々に雪が降ったら。


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