見出し画像

無くても死なない。

エンタメは「無くても死なない」ものに分類されがちですが、ファンにとっては「あるからこそ生きていける」ものです。【引用】現代ビジネス「コロナで大打撃」のエンタメ業界〜会えない憂き目のファンたちの今

小新井涼さんというアニメウォッチャーの方が書いたコロナウイルスとエンタメ業界についての記事を読んだ。すごく共感した。もうめちゃくちゃにその通りで、そう!その通り!!以外の言葉が出てこないほどにその通り!だと思った。(その通り!の最上級の活用があれば知りたい)

これはエンタメに限った話ではなく、もはや人間が生きていく中で気づかないほどに大前提になっている事実だ。今回の新型コロナウイルスによる自粛のおかげでみんなが平等にこの事実を身をもって思い知らされたような、そんな気がする。

私はこれまで何かを買うか悩んだ時

「これ買わなくても死ななくない?」

「無くても生きていけるよね?」

と心の中の自分に尋ねて買い物をしてきた。

例えば、百貨店で一目惚れしたアクセサリーがあったとする。可愛い!!!!!そう思っても、いつも反射的に「んーー無くても生きていけるか」と私の中の”なくても生きていける星人”が顔を出す。これはアクセサリーの値段が300円であろうと15000円であろうと変わらない。

でも、次の瞬間に買った後の自分を想像する。

そのアクセサリーを手にした自分、アクセサリーを身につけた自分。

・んー考えただけでワクワクする。決まり、買い!

・んー買ったとしても今の自分とあんまり変わんないな、、やめとこ。

だいたいこんな感じ。

アクセサリーは一つの例だとしても、こうやって無意識のうちに、あれば人生が彩るかもしれないと選択、判断して生きていたなくても生きていけるものがいつも自分の生活を彩っていた

今までも、そのことには何となく気づいていた。

でも今回のコロナ禍で心の底からそうだと気づいた。

大学の授業一つとってみてもそうだった。今はオンライン授業という形で毎日授業を受けている。これ、正直言ってめちゃくちゃ楽だ。いつもだったら授業が始まる3時間前に起きて朝ごはんを食べて、化粧をして、ギリギリ座れない電車に乗って、大行列になって大学の最寄駅からキャンパスまで歩く。顔をあげたら微妙な知り合い(顔は知っているが元気よく挨拶をするのもなんか違う気がする)とかと目が合ってしまいそうだから、何となく目線は下にしてイヤホンをつけて教室へ向かう。これを毎日やっていた今までに対して今はというと、寝起き3分で授業開始可能だ。朝ごはんなんていつでも食べられるし、化粧をする必要もない。

でも、何かが足りない気がしてしょうがない。高校時代からずっと憧れていて、受験を経て自分の学校になり、今まで当たり前のように通ってきた”キャンパス”という実態、存在が今は全くない。大隈重信の銅像や大隈講堂もその周辺の商店街も校舎も、今や当たり前になっていたけれど、毎日見ることでどこか「自分は今確かにここにいるんだな」「早大生である」というアイデンティティを確かめていたのかもしれない。その確かめこそが自分を彩っていたのかもしれない。

駅を出ると、夏は信じられないほど暑くてイライラして、冬は意味がわからないほど寒くてイライラして、「無理無理早く教室行きたいまじ外無理」とか思っていたその最早うざいとも言えた感情こそが、実はすごく私の生活を豊かにしていたのかもしれないと今なら思えるのだ。

今こうやってオンライン授業をしていて、キャンパスはなく家の自分の部屋で授業を受けていて、移動のストレスもなく、当然外に出ないから気候に対して文句を言うこともない。

いざそういう感情が日常生活からなくなってしまっても、全然生きていけているし、それがないからと言って死ぬわけもない。むしろ楽かもしれない。

でも、全然楽しくない。

なくてもいいもの、なくてもいい感情のおかげで毎日がこんなにも豊かになっていたなんて私は知らなかった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?