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【放送後記】#08学級崩壊にモンスターペアレント……数々の修羅場をくぐり抜けた教師が語る”教育の未来”【ゲスト:渡辺幸之助先生(文学部・日本文学文化学科・特任教授)


2023/12/27に収録した渡辺幸之助先生ゲスト回が公開されました!学生時代担任の先生や学年主任などの教員に対して皆さんも何かしら気になることがあったのではないでしょうか?そこで今回は、本編に入りきらなかった学生スタッフのQ&Aを放送後記として公開します!

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違いから学ぶこととは何か

高橋
 僕は高校時代は生徒会に所属していて、生徒会で何か面白いイベントを開催したかったので、他の生徒会はどうしているんだろうと考え、中学時代の同級生の他の高校で生徒会長をやっていた人に相談をして、実際に交流会をしようという話になり、それを顧問の先生に提案したんです。そしたら、手続きが色々面倒だし、問題にもなりうるからやめてほしいと断られて、その代わりに過去の生徒会のデータを渡されまして。
 今回の収録中に「違いから学ぶ」というキーワードが登場しましたが、「違いから学ぶこと」と「過去から学ぶこと」の違いや良い点・悪い点についてお伺いしたいです。

渡辺先生
 私がその先生の立場だったら、「面白いね。やろうやろう。俺も参加したいけどいい?」といって企画書を書かせて、場を設定し、そしてそれを記録して周りに発信しますね。ものすごく良い企画ですよね、間違いなく。おまけに生徒会で、ちゃんとした狙いがある。悪いところがどこにもないと思いますよ。それをボツにする感覚が、悪いけど私にはわからないですね。
例えば、今私が教えている大学三年生の中で、「もっと発言をした方がいいよね」っていう学生と、「そんなの、苦手な人もいるんだから強要しないでよ」っていう学生の対立みたいなものが起きているんです。そんな時、もし対立で煮詰まってきたら、「視野を広げる簡単な方法が二つあって、それは地理と歴史なんだ」と伝えています。
 「地理」というのは、他の学校はどうしているか、アメリカじゃどうしているか、というように地理的に視野を広げていくというやり方。「歴史」というのは、過去はどうだったのか、明治や大正の時代はどうだったのか、を遡って考えていくやり方です。そういう意味でいうと「違い」というのは、地理的な違いもあり、歴史的な違いもあるので、「違いから学ぶこと」と「歴史から学ぶこと」というのは全く違いがないといえると思います。
 ただ、この時代にやって大丈夫だったものが、今の時代でやっても大丈夫かとなると、それはもう背景が違ってしまっているんですね。背景も知った上であれば、違いから学んでいくことにデメリットはないといえます。ただし背景を知らないと、うっかり学び間違えて否定するような関係になってしまうので、きちんと背景を知るっていうことが重要だと思っています。

教師に対する反抗心の受け止め方


森貞
 教育とか指導っていう言い方をしたときにどうしても批判的な捉え方をする人っていると思っていて、例えば私は最近卒業論文を出したんですが、そこで扱った作品のタイトルが「教育」だったんです。現実からかけ離れた学校が題材だったので、あまり現実世界と結びつけるべきではないかなと私は思っているんですが、その世界の生徒たちは従っている自覚はないんだけども、傍から見たら従わされている環境、ともすれば洗脳みたいな状況を描いた作品で、何も知らない子供が指導という形で何かを言われたら、そういうものなんだって思ってしまうのが普通だと思うんですよね。
 そういう意味で、指導するということと、従わせてしまうことというのは言う立場からすると考えなくてはいけないものだと思うんですが、渡辺先生はどういうふうに意識をされていますか

渡辺先生
 これ、すごく重要なことですよね。自分が成長してきた中で心地良かったこと、理不尽だなと思ったこと、必ずしもみんな同じなわけじゃないけど、まずはみんな自分がベースじゃないですか。一人の人間として自分の生い立ちを考えると、抑圧されてきた時間はイライラするし、それから解放された時にはのびのびするし、解放されきった時に自由が不安になることもあったな、という自分のベースの中で子供たちに接していくんですね。そうすると、一人の教師の中にも指導として子供たちに理解させるべきことと、同時にそれの限界が感じられると思います。
 私は「役割」と「限界」という言葉がすごく好きなんですが、いつでも自分にはこの時点での「役割」があり、そしてそれは「限界」を伴っているということをすごく感じています。ですから、教員が自分の役割としての指導の部分と、限界の部分も意識していくということ、ただ、機械の限界はある程度決まっている部分があるけども、人間の限界は伸びていくということを考えると、指導している自分の役割と、それ限界を超えるものがあることを知っているのがすごく重要だと思います。
 私が好きな言葉がもう一つあって、「自分が悪いと思うな、やり方が悪いと思え」という言葉です。これは金勝武鑑先生という方に「先生がやっていることは方法を変えていくということが必要で、先生が教師としてダメだって思わなくていいよ。」と教わった。方法を変えていくことによって限界は広がっていく。だから子供たちに指導をして理解させる部分と、今度は子供たちがそこを突破して批判をしてきたときに、これは成長であるという受け止め方を先輩たちから学んでやってきましたので、それは教師の指導の中にある意味含まれているかもしれないと思います。
 例えば防災教育においては、命に関わることは絶対従わせないといけない面があるんですね。でも、どこまで逃げるかということは自分で考えながらやってごらん、ということを指導全体の中に組み込む必要があることをちゃんとわかっている教員になっていく必要があると思うので、そのあたりで解消できることかなと思います。

江端
 お話の中で荒れた中学校をなんとか平定したというか、鎮圧したというか、そういうエピソードを話していらっしゃって、それがすごく驚いたというか。僕の中学はすごく荒れていて、ものすごくやばい不良たちが跋扈していたような世界で、それを鎮圧するのがどれだけ難しいことなのかということを身にしみてわかっているつもりなんですね。それで、力で押さえつけて鎮圧したみたいな話をされていて、彼らを力で押さえつけるって一体どれだけのパワーを使って押さえつけたんだ、と思いまして。具体的にどのようなことをして不良たちを鎮めたのかなということが、当事者としてすごく気になりました。

渡辺先生
 それは、できないこととできることというのが多々あるんです。指導は生徒理解から始まるわけですが、自分が初めて学年主任として入った子たちは大体どういう子たちなのかは、上級生の担任をしていて知っていました。つまり、鎮圧できる子たちだったんですね。
 江端君がいっているような、暴力系も飛び抜けて、とか、あるいは影に入って、とか、あるいは反社会的な人たちと繋がりがあるとか、先輩のこういう人たちと繋がりがあるとか、そういう子たちにはある程度これで収まるだろうっていう関わり方はできません。だから相手を見極めてやってますね。この子たちは絶対このぐらいだなっていう。
 ただし学級崩壊はしているので、いろんな子たちがわがまま勝手に動いてはいて、そして深夜徘徊などもしていて、犯罪まがいのことをどんどんやっているというのは3年ぐらいになるとちょっと出てくるけど、基本的にはそういう子たちじゃないんですね。

江端
 ある程度生徒にも恵まれたという...

渡辺先生
 そういうこと。そうじゃないとそんなことは挑まないし、教員が生徒と同じ土俵の上で争うっていうのは全く教育にならないので。私の方が立場が上、あるいは力関係が上だっていう、要するに動物的な勘で、「あ、これだったらできるな」っていうところでいっているという。そうすると一旦は収まるっていうことですね。
 そこにもし恨みとか悔しさがあったら、絶対ダメなんですよ。そういうのはだんだん溜まっていっていつかバーンとなるので、本当に本人が悪かったなということがわかるようになるまで指導しなきゃいけないんです。ただその時私がやったことっていうのは、実は遺恨をちょっとずつ残していて、大きくはないけど、それがやっぱり三年になってちょっとずつ出てくることもあったという。

江端
 なるほど。そういった相互理解のアプローチというのがすごく面白いと思いました。ありがとうございました。

教員として「話す」「聞く」ということ


土屋先生
 校長先生になると、全教員や全生徒の前でお話をするという「校長先生のお話」というものがあるかと思うのですが、その時のお話は校長先生によってかなり違うと思うんですね。色々聞く話では、その中で面白いお話をされる方は稀有で、退屈だったりすることもあるそうでして、先生は「校長先生のお話」をされる時に何か心掛けていたことや、工夫していたことはありますか?

渡辺先生
 さっきの話にもあがりましたが、金勝武鑑先生という方が私の憧れの先生なんです。その方は校長先生の時に、全校生徒600人ほどを前にお話をしても、誰も欠伸をする人がいないというような「校長先生のお話」をしていたんですよ。原稿を用意していたのは見たことがないですが、常にメモを用意するなど、何か必ず準備をされていて、お話しする時には子供たちの話を必ず入れてましたね。
 本音で、形式張らずに、子供たちにとって身近な話題から入っていて、誰か個人的な名前も取り上げながら、でも優れた子をみんなの前で紹介するわけではなくて、ちょっとしたエピソード、例えば学園祭で怪我した子がそのやりきれない気持ちをどう乗り越えたのか、のような話を本人から聞き取ってあって、「俺はそういうとこに感動した」というように話してましたね。
 やっぱり子供たちを惹きつける話というのは、まさに今子供たちに直結するような話題であったり、聞いている子供たちが「俺もやってみよう」「頑張ってみよう」と思えるような話だと思っているので、私もその路線でいってましたね。

土屋先生
 先生も同様に、普段から感じてきたことの中からその時その時の生の正直な声を伝えているってことですね。

渡辺先生
 もちろん視野を広げたいこともあるので、それと関連させながら、例えばグレタさんがデモをしている写真を持ってきて話したりしていましたが、基本的には先ほどお話しした通りです。

大畠
 先生のお話から、すごく人の相談に乗るのが上手だという印象を受けてました。僕も人から相談を受けることが多いんですが、うまく返せているか不安になることがあるので、相談に乗るコツなどあったらお聞きしたいです。
 例えば、相談に乗っていて、相手の意見が間違っているなと感じた時は、それを否定するべきなのか悩んでしまって、うまく返事ができない時があるのですが、その時はどうすれば良いのでしょうか?

渡辺先生
 難しいよね。「君が言っていることは変だよ」とか「君の行動自体が変なのに、そのことに気づいてないんだね」と言わなきゃいけない瞬間もあるわけですから。

大畠
 そうなんです。その時、大体は自分の意見じゃなくても、自分の立場がよくなるようなことを言ってしまうんですよ。それはいいのかと思う時もあって、先生はどう考えていますか

渡辺先生
 まずそういう相談を人からよくされるということが素晴らしいですよね。中には相談されて自分が悩んだりする人もいるけれど、あなたが悩んでいるのはあなたの課題で、私の課題ではないということを口に出しては言わないけど、思っておく必要があるんです。
 職業人としてのカウンセラーは、実は時間を決めていて、一時間という時間でカウンセラーが守られるということがすごく必要ですが、教員の場合はカウンセラーではないのでそういうのはなくて、私なんかも最高で三時間ぐらい学生の話を聞いたりする時があります。ただ、やっぱり聞くだけでもすごく疲れるんです。
 私はカウンセラーではないので、カウンセリングはしていないし、相談に乗っているだけですが、話を聞いていると私もすごく同情しちゃいますけど、自分にできることとできないこと、それこそさっきの話にもあった「役割」と「限界」があるので、それを直接は言わないけれどちゃんともっておくということはすごく重要ですよね。
 例えばこの人が間違った感覚をもっていたときに、自分がその人と初対面であるにもかかわらず、間違っているとそのまま伝えたら、そこで関係が切れてもう二度と相談されなくなることがある。なので、これはこの場で言うことじゃないなと思ったときには、これはこの人の問題であって、自分が関われないこともあるので、踏み込まない方がいいこともありますよね。私は、いい関係性をここで作れていればまた次も相談に来てくれると思うので、その時を待っていることもあります。
 それは自分がいい立場にいて、いいことを言って、いい人を装っているとはあまり思わないで、その人に任せるしかない問題もあると思った方がいいですね。あとはよく言われるんですが、「何か言ってあげないと悪いよな」と言うことや、「これこうしたら」と言うのが自分の仕事だとあまり思わない方がいいと思います。とりあえず喋りたいという人もいますし。
 ただ私がなんで三時間も話を聞いてしまうかというと、その背景も聞くからですね。そうすると、この人がもっている問題はここから来ているのか、ということが意外と掴めたりします。
 そういう意味では、その時間の中で端的にこの人に答えを出せると思わない方がいいです。そんな時、「私はあなたの鏡になりたいです」と私はよく言います。これは、自分では気が付かないことをオウム返ししたり、「これってこういうことですか」「あなたが悩んでいるのはもしかしてこういうことですか」と言って要約して返していくということですね。ただ歪みは取れませんけどという注釈付きです。そんなふうに相談に乗っているつもりです。

イドバタコウギの収録はいかがでしたか?
渡辺先生
 みなさんがこうやって主体的に関わって動いているのを現場で見るという貴重な経験をさせてもらったことに感謝したいなという風に思います。そもそも、私は学生が自分たちで何かをしたいということには、自発性を奪わない程度で最大限援助したいと思ってずっと教員生活をしていましたので、みなさんのような学生に出会うと生きる喜びを感じられますね。もうみなさん一人一人に、イドバタコウギにどんな動機で関わって、どのようなやりがいがあるのか、どんな難しさがあるのか聞きたいぐらいです。それは今回のこの場では聞けなかったんですが、また何処かでもしお話しする機会があれば、ぜひ聞かせてもらいたいです。
 やっぱり、発信していくことにはリスクが必ず伴っていて、だからこそ今の若者たちが発言すら躊躇し、教職を目指している学生たちですら、中には人前で話すことが苦手で、発言も躊躇してしまう子たちがいて、「今はそれでいいんだよ。今はそれでもいいけど、一歩踏み出してみない?」という風に私は思っているんですが、そういう意味でいうと、リスクが必ず伴う表現や発信をこうやって武蔵野大学でしようとしているみなさんに対して、敬意をもってこの場に望ませてもらいました。ありがとうございました。

おわりに

 今回のイドバタコウギはお楽しみいただけましたでしょうか?教職を目指している学生たちや、学校関係以外の方々にも楽しんでいただけたら幸いです。
 イトバタコウギのチャンネル登録、各種SNSのフォロー、視聴者アンケートへのご協力も、どうぞよろしくお願いいたします!

文責:内田恵美莉・大畠佳汰


番組クレジット

ゲスト:渡辺先生幸之助(文学部・日本文学文化学科・特任教授)
企画/パーソナリティ:伊藤 遥香(日本文学文化学科4年)
           星野 烈(日本文学文化学科3年)
撮影:江端 進一郎・長田 千弘・森貞 茜(日本文学文化学科4年)
   内田 恵美莉・小瀬 ゆかり(日本文学文化学科3年)
   大畠 佳汰(日本文学文化学科2年)
   高橋 知大(法律学科2年)
編集:江端 進一郎・伊藤遥香・森貞 茜(日本文学文化学科4年)
ショート動画:小瀬 ゆかり(日本文学文化学科3年)
       長田 千弘(日本文学文化学科4年)
監修:土屋 忍(日本文学文化学科 教授)
収録日:2023年12月27日(肩書・学年は収録当時のもの)
提供:武蔵野大学

武蔵野大学発インターネットラジオ番組「イドバタコウギ」
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