秋の夜長にはちょうどいい

前回の記事で、ひたすら暇つぶししていると書いた私だが、やれることが無いと暇つぶしに考え込むのがふつうになる。そして私は、他人について思考をめぐらせるほど他人にさほど興味がないので、自然と自分について考える。
いつからやるようになったか覚えてはいないが、中学生あたりから自己分析するのが癖だ。おそらく、己の行動の反省をするときに原因を追求していくから、自然と分析していくようになったんだろう。

今日考えていたのは、以前書いた「職業差別」のことと、「長生きしたくない理由」だった。

過去の私は、「職業差別なんて無くなればいいのに」と述べているが、記事内で平然とやりたい、やりたくないに職業を分けている。
これは、私からしたら職業差別には当てはまらないのだが、第三者からしたらそうとは限らない。
私は賃金や待遇と、私の生活スタイルを鑑みて、やりたいとやりたくないに分けているが、結局「やりたくない仕事」を格下に見ているのではないのだろうか?

自己の矛盾に気付かないまま「差別なんてひどい!」と訴えるのはなかなかに面の皮が厚い。
だがそうなると、一生揚げ足取りが終わらないことになる可能性がある。なにせ、私はそこまで深く物事を考えない。考えるにしても、一度はアウトプットして、そこから添削をするスタイルなのだ。
そして最終的に答えを得るまでには、なかなかに長い時間がかかるものだ。

話しが逸れたので職業差別に話題を戻す。
私は本当は職業差別をしているのか、それが問題になる。そもそも職業差別がなんなのか、一般的な定義を見ると「特定の職業を軽蔑すること」とWikipediaに載っていた。そこから考えると、私はとりあえず軽蔑はしていないので、おそらく大丈夫と考える。
それならいっか〜と納得できたらいいんだが、なんとなく腑に落ちない。自分の中に、まだ何かがわだかまっている気がしてならない。ううん難しい。

そして「長生きしたくない理由」だが、前回の記事で理由をたらたら挙げたが、私にはそもそも「頑張りたくない」という考えが根本的にありそれが大体の原因に思えた。
人生を謳歌したい。報われたい。人に認められたり、己の満足できる域までなにかを追い求めたりしたい。
そう言う欲求が、薄い。いや、もしかしたらおさえつけている。やせ我慢している。そう感じた。

私には、人生における「成功体験」がほとんどない。
努力しなかったわけではないのだが、いままで努力をしても他者に認められたことが、実感としてない。私は人並みよりやや自己愛の強い人間なので、自己満足に加え他人から称賛されるのが好きだ。すごいね偉いね頑張ったね。そう言われたい。
で、それが現在までにあまり言われなかった。

努力しても「その程度」。頑張っても「当たり前」。そこで奮起して一層努力すれば多少は良かっただろうが、私は心底臆病で卑屈な人間なので「どうせ頑張っても評価はもらえず、私はその程度なのだ」と考え、どんどん努力が嫌になる。
自分が傷付くことを嫌うようになった。
自己愛が変にあるせいで「私が他人に蔑ろにされるのが耐えられない」のだ。これは決して悪いことではないと思うのだが、私はそれが極端すぎたように思う。

三十年以上生きて、ようやくそう思い至ったが、もはや取り返したいとは思えない域にいる。
誰かに認められないという絶望は、なかなかに凄まじいものだ。今、それをまた体験しようだなんて、とてもじゃないが考えられない。どうにもならないほど根付いてしまった。
そしてその怯えが、あらゆる理由も絡めて、結果として「人生で頑張りたくないから早めに死にたい」になったのかもしれない。

甘っちょろいと言われたらそこまでだが、あいにく誰にも私の頑張り度合いなどわかりはしない。理解されなかった。
そういう人生だった。

暇な深夜に、こうやって自己矛盾と自己愛と卑屈に苛まれる。ただ、私はこうやってあてどもなく私について考え込むのが、なかなかに好きなのだ。
だって、自分が一番好きなのだから、当然だ。