思いやる=可能性の考慮

 自分の思考のくせとして、論理が飛躍してしまうことがある。というのも、ある出来事を受けた時に悪い結果をまず連想してしまうのだ。しかし、それはある意味「妄想」に過ぎず、そこには大きな論理の飛躍が存在する。

 他の人がある行動をとった時、私たちはその背景にある心理を短絡的に、そして断定的に考えがちではないだろうか。だがそうではなく、他の心理的な背景が存在する可能性に目を向ける必要があると思う。

 つい先日、アルバイト先の飲食店で、「予約の2時間も前に店に到着し、何もオーダーしない」お客様がいた。私たち店員はみなこぞって、非常識な人だと断定した。予約しているとはいえ、その時間に座席を使用することは新規のお客様を入店させる枠が減るということ。その分の対価は支払われて当然だからだ。しかし、私は本当にその人が非常識な人なのかを疑った。もしかしたら他の原因が存在しているのではないか。そう思った私はお客様と話をした。結論は私たちの断定が間違っていた。そのお客様は予約の時間を1時間半も勘違いしていたのだ。

 ある行動には心理的な背景が存在する。しかしそれは他者が短絡的に捉えられるものばかりではないということ。その人の見ている世界と私の見ている世界は当然異なり、いわゆる情報の非対称性、情報量に差がありすぎるのだ。その前提に気づき、相手がその行動をするに至った心理をなるべく想像してみる。そうすることであなたの目の前にいる他者が違った人に見えてくるはずだ。相手への理解に近づくことで、優しさも生まれる。そうした「可能性を考慮する」姿勢こそ、思いやりではないだろうかと思うのである。

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