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#015:知識と知性と・・。


助けられているのに、イラつくのは何故?

最近、私は非常に適切で、まるで私のために情報をキュレーションしてくれるかのような友人Aに対して、なぜか「イラっ」とする感情を抱いていた。その人は非常に知識も豊富で、まるで私のための頼りになるコンシェルジュのような存在だ。しかし、その一方で私はイラつきを感じていた。

友人Aとの関係を考えながら、そのイラつきにもう少し注目してみた。
友人Aが披露してくれる情報は明らかに知識に裏打ちされている。その知識は歴史や科学、文学などについての深い理解が感じられ、まるで情報のアーカイブのようだ。そこから導き出される、私のニーズへの確度の高い適切さが私を喜ばせてくれる。しかし、なぜかイライラが募る。

その謎めいた感情を解明するため、今度は友人Zに尋ねてみることにした。
友人Aと将来的に関係を築く予定がないと分かっている友人Zに、「なぜ、私はこの親切な友人Aに対してイラッとしてしまうのだろう?」と問いかけてみたところ、友人Zからの返答が興味深かった。
「知識は披露してくるのに知性がないからイラっとするのではないか。」と。

 タイトルの背景画像の解説。
内容と無関係だけれど、この作品を茫然と見上げるのは気持ちがいいので、お口直しに。
いやほんと、平和と愛と調和は大事だと思いますが・・でもUnityは本当に必要?

「知識」と「知性」

言葉を定義したくて、ChatGPT氏に「知識と知性について、わかりやすい説明をお願い」してみた結果が以下。さすが分かりやすい。納得・・といっても、正しいと感じる私の「知識」に問題があれば、納得している場合ではないんだけど。そこに違和感を感じるかどうかは、それぞれ各人の「知識」によるものなのかな?

知識(Knowledge):
定義: 知識は、事実や情報に関する理解や認識の蓄積。
特徴: 具体的なデータや情報を学ぶことによって得られ、主に経験や学習に基づく。
例: 歴史の出来事、科学的な原理、言語の語彙や文法など、具体的な情報や事実が知識になる。
知性(Intelligence):
定義: 知性は、問題解決、論理的思考、学習能力など、知識を使って柔軟に考え、適切に行動する能力。
特徴: 知識を基にした深い理解や柔軟な思考、知的な能力や洞察力や新しい状況に対応する能力が含まれます。
例: 問題解決能力、論理的思考、判断力、クリティカルシンキングなど。

ChatGPT 3.5の結果を元に多少の加筆修正

閑話休題。

ここで「知識」と「知性」の違いが浮かび上がった。
友人Zの言葉から察するに、友人Aは確かに情報を提供することに秀でているが、その中に深い洞察や知性が感じられていないのかもしれない。知識は単なる事実やデータの集積であり、それを持っていることと知性は別物である。

例えば、私が旅行に行ったと伝えると、友人Aは早速「高価だし分厚いしと躊躇していたけど、(私の旅行先エリアの)歴史に関する本を読み始めたよ」と、書影と共に適切な本の情報をシェアしてくれる・・が、その本を選んだ理由は「友人Aの母校の研究所で良書と紹介されていた」だったりする。信頼できる筋なのだからそれでいいのだけど、もしもその本の目次の何処に興味を持ったのか、ジャケ買いなら何に惹かれたのか、などの補足情報があれば、友人Aと私の間にもっと共感の橋がかけやすかったんじゃないだろうか。そしてこの補足情報こそ、知性を感じさせる部分なんじゃないかなぁと、ふと気づいた。

「知性」を感じるとは?

友人Zとのやり取りで、「知識」と「知性」という言葉の微妙な違いに気づいた。友人Aが提供している情報は確かに「知識」であるが、紹介の際に深い「知性(紹介理由)や洞察(なぜ私に紹介しようと思ったのか)」が欠けている。その結果、私が共感したり、考えさせられたりする知性的な投げかけが無いため、「そう、よかったね!」「素晴らしいね!」といった称賛を強要されているように感じるのだ。
つまり、友人Aの情報提供が、私の思考や感情を刺激する要素を欠き、しかも「だから何?」「それで?」という問答を始めようものなら関係が破綻するかもしれないという面倒臭ささしかないシチュエーションを押し付けてくることが、私のイライラの根本にあるようだ。
知識と知性、それぞれの要素が人との関係においてどのような影響を与えるのか、興味深い洞察を得た出来事であった。

結局のところ。

長々と知性派っぽく分析してみたものの、最終的に私は友人Aの情報提供の際にまとわりつく「高価で分厚い本を読める私」「優秀な大学が母校の私」というマウンティング風味なところが、いい加減鼻についたんだということが明確になったのであった。

あースッキリした。
さて、マウンティング野郎をどうやってすっ転ばすか、そっちを考えて遊ぼうっと!

40色41,600羽の鳩。

追伸:

冗談風味に結論したけれど、私は人のマウンティングに気づくためには、客観的に腑分けしていかないと難しいと改めて感じた。
助けてくれた友人Xに感謝。ネタを提供してくれた友人Aにも、適切な距離をとって心の中で感謝の合掌をしたい。

しかしマウンティングは失礼であると思うが、私はなぜそれを「マウンティングしていらっしゃるのかしら?」「なぜマウンティングをしなくてはいけないのでしょうね?」「どの言葉によってマウンティングは作り出されているのか?」など分析するか、さらっと有益な情報だけを「提供ありがとー」と受け取り、その他の雑味の部分を切り捨てられないのだろう。いつかくる次の機会には、そんなことを考えてみたい。

多様だけど統一感があるのはなぜだろうなぁ。
統一感は美しいけれど、なんとなく警戒するワード。

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