時間感覚

1日は何時間ですか?

別に頭がおかしくなった訳ではないけれど、そんな疑問がふと浮かんだ一日だった。

ビジネス社会では、いかに早く高付加価値な商品を作りあげるかが、競争に勝ち抜くための常識となっている。その中で、早さの尺度というものは時間で定量化され、それを短縮することが業務効率化と呼ばれることが多い。ここでは、時間は全ての企業や個人事業主に1日24hだという、客観的指標で平等だという前提で話がなされる。

個人主義の観点でよくある論調としては、個人が生まれた生育環境や、それに付随する金銭的猶予、個人の遺伝的要因は選択できないが、時間だけは平等だという話である。もちろん、お金持ちはタクシーに乗って、低所得者は徒歩で歩くというように時間をお金で買うという話もある。ただその場合、金銭的な不平等が先にあって、与えられた時間という観点では、客観的指標の1日24hという前提は変わっていない。

一方で、この世界は身体が感覚器から得た刺激が電気信号として脳内に伝わり、そこで映像化/音響化された主観的なものであるならば、知覚の差異によって時間に対する認識もずれてくると考えられる。この場合、客観的指標である1日24hというものに、感覚器の感受性、神経伝達回路の性能、脳の容量など様々なファクターが掛け合わされ、固体差が生じていることになる。

時間の進み方が個人の中でも変わる例としてよく挙げられるのが、チクセントミハイが提唱しているフロー状態である。フロー状態では脳波が変わっているという検証事例もあるため、身体的/精神的状態という主観的要素によって、時間感覚がずれているのだろう。

ここらの話を極端な形で、かつ論理的にまとめたものが、カルロロヴェッリ著書の『時間は存在しない』だったように思う。本の内容はかなり忘れてしまったが、概念的にはそんなイメージで記憶されている。それまでは若いほど経験がないため時間が長く感じられるというジャネーの法則をなるほどと思っていたのだが、本著を読んでより抽象化された形で主観のイメージが形成されたように思っている。

忙しいと言う人ほど、客観的な時間というよりは、主観的な時間に拘束されているように思う。5分でできることを、後回しにして頭の中でずっと思い続けていたら、主観的時間としての未了状態がとても長く感じられて、精神も消耗するだろう。一方で、誰もいない静かな環境のもと、自分の好きな音楽を掛けながら、快適に仕事を進められるのは心地良い状態と言えるだろう。この時、主観的にはフローであっという間なのかもしれない。でも、実施した仕事量や質は向上している訳だから、周りの人から見たら時間を多く持っているような錯覚を覚えるかもしれない。そう考えると、自己の主観と他者の主観のギャップというものも存在するのだろう。

最近は、月~金の定時内は時刻を気に掛けるけど、それ以外は時計すらまともに見なくなったように思う。そもそも1日24時間と決めたのは人間だし、最低限の社会生活を営む上では大事な尺度であるけれど、別にその法則に必ずしも囚われる必要はない。時には主観的時間に没頭して、夜7時に寝てみたり、土日の昼間から酒を飲んだり、朝4時に起きてみたり、ひたすら読書をしてみたり、自由な生活を楽しむことも大切なのだろう。

あくせく働く周りの人を見ながら、冒頭の質問とともに、こんなことを考えつつ、主観的世界を楽しんでいた一日であった。

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