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【短編小説】初々しい

黒髪のコームオーバー、シルエットに馴染んだ着こなしのスーツにポケットチーフ。チーフと同じブランドの腕時計。おそらく靴はイタリア製だろう。

「神石高原のお酒よ、あなたに合うと思うわ。香りは甘いのにキレのあるお酒よ。」

 看板もない古びた掘立小屋で営むおばんざい屋がある。ママがひとりで切り盛りするお店に通い詰めて3年がたつ。

「おいしい。このホタルイカと抜群に合います。」

 突き出しに出てきたホタルイカの煮つけは生姜がしっかり効いていて、神雷とラベルの貼ってあるこのお酒との相性がばっちりだった。

 カウンターが8席。常連が集うお店だが、最近は観光客や紹介客も多く22時過ぎのいまもはじめて見る人が多い。『疲れた時にコンビニ弁当って余計に疲れる』そんなことに気づいたのは30歳を過ぎたあたりだっただろうか。随分と滅入った日の仕事帰り、ふらっとはじめて立ち寄ったこのお店で「初-UI-」という冷酒に「しめ鯖」をいただいた。ラベルには初心忘れべからずー。と書いてあった。疲れなんてどこかに吹っ飛んでしまって、ずいぶん晴れやかな気持ちになったのを鮮明に覚えている。美味しい食事と美味しいお酒に敵うものはない。そして今日も幾分草臥れていて、仕事帰りに立ち寄ったらこの時間である。

「久しぶりね、仕事どう?」
「まあまあですね。今日は手厳しい論評に意気消沈している感じです。」
「そんなときもあるわよ。食べて寝たらどうでもよくなるわ。」

 人生の先輩はあっさりとそんなことを言って注文を聞くとすぐに背を向けて料理を作り始めた。
私はひとり、会社携帯を手に取り意気消沈させたメールの内容を黙読する。甘いお酒がため息のせいで少し苦く感じた。せっかくの美味しいお酒をそんなことにしてはと、電源を切る。そんな折、入口の扉が開いた。

黒髪のコームオーバー、シルエットに馴染んだ着こなしのスーツにポケットチーフ。

 間違いない、彼だ。話したこともない、目を合わせたこともない。ただ知っている。私がはじめてこのお店に来た時、奥のカウンターでひとり”ゴルゴンゾーラのハンバーグ”と”赤ワイン”を頼んでいた人だ。結婚式の帰りなのかなと思うほど身だしなみが整っていて、だけどそれは特別な日という感じではなく日常的にそんな空気間で生きているんだろうなと思わせるオーラがある人だった。鞄から文庫本を取り出し食事が出てくるまで、ずっと本を読んでいた。表紙には深夜特急——。その頃ちょうど私は香港に行く前で1巻を読み始めていて、彼は南ヨーロッパ・ロンドンの6巻を読んでいる。ただそれだけで、彼を知った気になっていた。

 周りを見渡すと、偶然にも私の隣の席しか空いていない。彼がこちらに向かって歩いて来る。

「こんばんは!」

 目が合って、はじめましてなのにお久しぶりですくらいのテンションで挨拶してしまった。

「こんばんは、隣いいですか?」
「あっ、どうぞ。」

 慌てて、椅子や机の上にある食器やおしぼりを彼が座る席とは逆に少しだけずらした。ママが彼におしぼりを渡して、箸置きの上にそっと箸を並べる。ママは必ず、お客さんが座るとカウンターのこちら側に来てその一連の動作をする。その無駄のない動きが美しい。

「お疲れ様、ねえ新しいピノ入れたわよ。飲む?」
「もちろん、ようこさんのチョイスならなんでも。」

 彼はママのことをようこさんと呼ぶらしい。そんな会話を聞きながら、ポケットチーフのBの文字を眺めていた。ママがカウンターの向こう側に戻りグラスを用意している。

「えっと…はじめまして。だよね?」
「あっ、すみません。はじめましてです。あっ、でも私知ってます。というか知らないんですけど、お見かけしたことあって。3年前くらいにここで。」
「3年前?そうかー…そうだったんだね、久しぶりみたいな顔してるから、僕が忘れてしまっているのかなって少し考えたんだけど思い出せなくて。失礼なこと言っちゃだめだなーって思ってさ。ここよく来るの?」

慌てて話す私を落ち着かせるような声だった。

「たまに、月に1回くらいですかね。仕事帰りにふらっと。」

「僕もそんな感じ。もしかしたらもっと会ってるかもね。」

「いえいえ、会ってないです。いつもいるかなーって思いますけどいらっしゃらないから。もしいらしたら、もうオーラで分かります。」

「はは、そんなことないよ。いつもは地味な感じだから。」

 笑うと目尻にたくさんシワが寄って、それもまた紳士的だった。

「はい、どうぞ。」

 ママがグラスに注いだ”新しいピノ”を彼に渡して、彼はそのグラスを私の方に傾けた。

「お疲れ様。」

 私も急いで御猪口を持ち彼のグラスの方向へ少しだけ持ち上げる。

「お疲れ様です。」

 彼は香りを嗅いだり、グラスをくるくる回したりしている。

「赤ワインお好きなんですね、前お見かけした時も赤ワイン飲まれてました。ピノっていう品種ですか?」

「そう、ピノノワール。ピノにはじまりピノに終わるって聞いたことある?ピノに恋して、ワインにハマる人も多いんだけど、色々他の品種も試して。でもね結局戻ってくるんだよ、ピノに。そういうお酒。」

 彼がグラスを持つとスーツの袖が少しだけ下がって、左腕の時計が見えた。チーフと同じBの文字。おそらく靴はイタリア製だろうと思いながら聞いていた。

「日本酒が好きなの?」

「あー好きと言うか、食べることが好きだから。食事に合ったお酒を飲むのが好きで。焼き鳥ならビールだし、パスタなら白ワインみたいな。チョコレートならコーヒーです。ここは和食メインで頼むので、なので日本酒です。」

「若いのにいい飲み方をしてるね。ホタルイカにはやっぱり日本酒だよね。」

 彼は2杯目のピノを頼むとき、1杯ピノどうぞと私の分までオーダーしてくれて、わたしはここでピノのはじまりを覚えた。

「あの、ずっと気になってたんですけど、3年前、イタリア行かれました?」

「え??なんで?」

「耕太郎、沢木耕太郎読まれてたので、ここで。第6巻。行くのかな~って。それにほら、今も上から下までBVLGARIだから。お仕事スタイルですよね?」

「はは、そんなとこまで見られてたの?恥ずかしいな~。仕事はびっくり、正解だよ。君の読み通り。BVLGARIを扱っている仕事してる。すごい観察眼だね。ローマはね、だからよく仕事で行くよ。買い付けにも行くし、パーティーに呼ばれたりもあって。でも3年前は行ったかな…。本はね、コウタロウが好きなんだ。」

 すると鞄の中からすっと伊坂幸太郎の本がでてきた。グラスホッパー。私も好きな本だ。

「沢木耕太郎も伊坂幸太郎も好きで。いつもどっちかの本が鞄に入ってる。深夜特急は旅のバイブルだもんね。学生の時は、この本ひとつを手掛かりに旅してたよ。僕が学生のときなんか携帯もないし、まだネットも普及してない頃だからね。今でもたまに読み返すんだ。君も本が好きなの?」

「はい、私もコウタロウ好きです。3年前に香港に行く前に深夜特急読んでいて、そのころにお見かけしたんです。だから余計に記憶があって。同じシリーズ読まれている方が同じ店に来ているなぁって思って。」

 お酒の話、本の話、旅の話、仕事の話。さんざん話して、いつの間にかそのお店には私と彼とママだけになっていた。草臥れていた自分が嘘みたいに晴れやかな気持ちになっていてお別れするのが寂しいなって思って、それなのに時間だけは過ぎていった。お店が閉まる時間になって、お会計を済ませた。彼は帰り際に連絡先は聞いてこなかった。その代わりに、ひとつだけ会えるヒントだけを残して。

「来週火曜日、20時くらい。イタリアワインが美味しい店があって。LUCEっていうお店なんだけど。その店にひとりでいるよ。もし来れたらおいで。」

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ずるいね、あなたは最初からそうだった。人の予定も聞かないで、全部自分で決めてしまうんだもの。

▼続編「ピノ・ノワール」描きました、お時間ありましたらどうぞ。

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