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ピアノ

ピアノ

 街のはずれに、その建物はあった。人影が絶えて久しい、古ぼけた石の館は、その外壁をすっかり野生の蔦に覆われ、まるで人が近付くのを拒むかのように、ひっそりと其処に建っていた。
赤く錆びついた分厚い鉄の門扉には、荘厳なバラのレリーフがほどこされ、かつての住人の威光をかいま見ることができるのであった。

 柔らかな陽射しに包まれた、春の日のある朝、男はその門の前に佇み、館から漏れ聞こえる透明なガラスのようなピアノの音に、耳を傾けていた。
 やがて男は、その音色に捕らわれ、まるで何かに導かれるように、厳めしい門扉を押し開き、建物の敷地へと足を踏み入れたのであった。何年も手入れのしていない前庭には、春の野草が生い繁り、名も知らぬ可憐な花を其処此処に咲かせていた。

 ピアノの音は確かに館の中から、聞こえてきた。繊細で且つ、情熱的なその調べは、今まで男が聴いたピアニストの誰よりも魅力的で、男の心を揺さぶるものであった。
 茶色く錆びた真鍮性のドアノブに手をかけ、ゆっくりと回すと、玄関の扉は、何の抵抗もなく、まるで男を家の中に導き入れるように開いたのであった。

 久しく使われていない古い館の、少し黴の匂いのする建物の中に、男は体を滑り込ませる。分厚いカーテンが引き回された家の中は、薄暗く、人の住んでいる気配は全く感じることができかった。しかしピアノの音だけは、館の奥の部屋から、絶えることなく流れていた。

 男は手探りで音のする部屋を目指した。
 板敷きの廊下はぎしぎしと軋み、天井の高い建物の中に響くのであった。
 男はピアノの音が消えてしまうのではないかと怖れ、細心の注意を払って足を運んだ。
 館の中はまるで城のように広く、大きな扉に隔てられたいくつもの部屋が並んでいた。

 男は漸く一番奥まった部屋の入り口に辿り着く。

 ピアノの音は、確かにその部屋から流れていた。男はしばらくの間、扉の閉まったその部屋の外で、ドビュシーのベルガマスク組曲第3曲「月の光」に耳を傾けた。心に浸み入るその音に、男は酔いしれる。
 やがてドビュシーが終わると、ショパンの「スケルツオ第2番作品31」を奏で始めた。

 意を決し、ゆっくりと部屋の扉を開く。

部屋の中は、男が佇んでいた廊下よりさらに暗く、誰がピアノを奏でているのか、見当すらつかないほどであった。
でも確かに誰かが居る。男は、自分を魅了したピアニストと、同じ空間に居ることを確信した。

 男は押し寄せる感動に身動きのできぬまま、その場に立ち尽くしていた。
 だが次に、この演奏者の姿をどうしても目にしたい衝動に駆られた。陽の光の中で、このピアニストの演奏をどうしても聴いてみたくなったのだ。

 窓際へ静かに歩み寄り、分厚いカーテンに手をかけ、一気にそれを引いた。
 春の陽が、まるで射すように真っ暗であった部屋の中に入り込んでくる。

 男は、大きなサロンの中央に置かれたグランドピアノに、真っ赤なドレスを着た少女が向かっているのを目にした。
 ほとんど透き通るような肌をした、栗色の巻き毛の少女であった。

 しかし、そこまでであった。男は自分の犯した過ちを、すぐに理解した。それはあまりにも残酷であった。
 アフロディティのような美しさに、思わず近付こうとしたその刹那、目の前の少女は、跡形もなく消え失せてしまっていた。勿論ピアノの調べも。

 それだけではなかった、男の心を揺るがしたあの音そのものが、脳の記憶の中から、まるで気化するかのように消えて行くのであった。

 残されたものは、埃のかぶった古ぼけたグランドピアノが一台。
 もう何年も弾き手のないままに、放置されているようであった。

 男は、何かに憑かれたように必死の形相で、幾つもの窓を全て開け放った。
 春の風が部屋の中に流れ込む。何年もそこに溜まっていた重い空気が一掃され、春の息吹が、部屋の隅々までに行き渡った。

 男は、何故此処にやってきたのかも理解できぬまま、ピアノの前に立ちつくすのであった。


à Paris   一陽 Ichiyoh


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