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一杯のボルシチ

昨日に引き続きウラジオストクに行ったときの話。令和の皆さんは「一杯のかけそば」の話なんか知らないだろうなと思いながら書いている。あの話は当時は人情話とか美談みたいな「いい話」だったけれど、今の時代は「こんなマナー違反の注文のしかたをされたら飲食店に迷惑」という炎上話にもなりそうだし、「飲食店で家族四人でかけそば一杯しか頼めない現代の貧困のリアル」という社会問題提起話にもなりそうだ。時代は変わる。


話を元にもどして、ウラジオストク出発前、私は緊張で胃を壊した。コロナがじわじわと迫っている頃で、海外渡航が制限される寸前の話だった。ここを逃したらしばらく旅になんか出られないかもしれない。でも行ったらもしかしたら帰ってこられないかもしれない。そして自分自身が出発まで絶対に病気にかかれない。このプレッシャーはさすがに図太いはずの私にも結構キツかったらしい。幸い出発までにコロナ等にかかったりはせずに済んだが、精神的ダメージが胃にくる私はこのときもがっつり胃を壊した。普段なら食べるのが大好きで何でももりもり食べられるのに。特に旅先での爆食いを楽しみにしているのに。このときはそれどころではなかった。


なんとか無事出発でき、ウラジオストクには約三時間で着いた。近い。たった三時間なのに街並みは完全にヨーロッパ。アジア圏よりも異国にいることを強く感じた。街の中は美しい建物が並ぶが、少し郊外に出ると明らかに貧しい雰囲気の民家ばかりで、ロシアという国のリアルを見た気がした。


初日の夕食、まだキリキリする胃でちゃんと食べられるだろうか……と不安と地味な痛みに震える私の前に、それは現れた。



ボルシチ。ロシア料理として超有名な、観光客へのディナーの前菜としてもベタ中のベタであろう赤いスープ。これまたベタ中のベタなアジムートホテルの中のレストランのボルシチ。朝食付きプランのある東横インの朝の味噌汁みたいなものだろう。こてこての観光客むけの料理。元気な私なら特に何の感動も覚えなかったかもしれない。


だが、スプーンですくっておそるおそる一口すすったその温かい液体は、野菜の優しい旨みと熱で私の舌を包み込み、喉から胃にむけての軌道を労るように静かに流れ落ちていった。

美味しい。
しみじみと思った。そして何より「ボルシチはロシアのひとにとっての味噌汁」という知識を身を持って理解した。あの美味しさと優しさは間違いなく味噌汁と同じものである。


この一杯のボルシチのおかげで私と私の胃は回復していき、元気に美味しいロシア料理の数々を食べることができるようになった。あの味は一生忘れられない美味しいもののひとつだ。


いつかまたあの街に行ける時勢になるのか分からないが、早く平和が訪れますように。


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