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ショートショート 「こどもバッジ」

その母親は、役所の子ども育児支援課までエレベーターを上がっていた。子ども育児支援課は5階にある。5階に着くと、母親らしき女性たちが列をなしていた。

「政府のこんどの育児支援はそうとうなものね」

「びっくりよね」

そう話す女性たちの列に、その母親は加わる。申請書類は必要ない。個人カード1枚あれば事足りるのだ。

申請が済み、母親は無事にその証となるバッジを受けとった。

<こどもバッジ>

政府は深刻な少子化対策として大きな決断をした。

妊娠中の女性、子どもをもつ母親または父親、その他保護者向けに「子どもバッジ庁」を創設し、国をあげて多大なバックアップをしていくと宣言した。

そのバッジを身につけていれば、育児に関わるさまざまな特典が受けられるというわけだ。今や子育ては、昔よりかなり困難な人生イベントとなっていた。出生数は1.26となり、独身者もしくは一人っ子家庭が増えていく。

このままでは国が立ち行かなくなる。国力を集結しなんとかしなければ、この国そのものが消えてしまう。

消えてしまうというのは、決して大袈裟ではない。現に隣国は出生数が1を切り、隣国政府としてもあらゆる手を打ってきたが、みのりある結果とはならなかった。

人が減ると生産力が減り、消費力が減り、国際競争力が低下する。経済が回らなくなる。電気、ガス、水道設備などライフラインを維持するのが困難になり、隣国の国の形は大きく変わった。

地方の村から人の姿が消え、山林は荒れ、河川の氾濫が頻発した。食料自給率は過去最低となり、隣国は食材のほとんどを他国からの輸入に依存せざるを得なくなった。

パンを一つ買うのもためらう値段だ。だが仕方がない。食べることは、生きのびることだ。

人口維持のため、他国からの移住者を募ったが、他国も深刻な人口減社会に苦しんでいた。その国に移住する何か大きなメリットでもなければ、人はおいそれと移り住むものではない。

隣国の大臣は隣国と国境を接する大国に支援を求めた。大国は隣国からの支援申し入れを受け入れたが、条件として合併することを隣国に求めた。

隣国は大国のさまざまな条件をのまざるをえず、かくして隣国の名は、地図上から消えた。

かろうじて母国語を話すことは許されたが、文書など筆記物はすべて大国の文字を使うよう指示され、隣国は文化的にも消えつつあった。文化とは、その国のルーツであり、アイディンティティそのものだ。消えるとは、つまり、そういうことなのだ。

そのような状況であるからこそ、政府も必死だった。政府の支援は子どもに関わるあらゆる生活全般に及んだ。

子どもを育てる仕事は”最も需要な仕事”として国から給与が支払われるため、育児者は働きに出なくてもよくなった。毎月30万円、子どもが成人するまで支払われる。


「助かった……」

と母親は思う。母親には子どもが3人いる。中学生一人、小学生一人、園児一人。

3人バラバラに教育上必要な文具、教材など日々用意しなければならず、加えて毎月誰かの学校行事、PTA行事、地区役員の集まりなど何かしらの役割があった。

夫は仕事に忙しく、ワンオペが当たり前。家庭生活をまわすのもやっとのことで、これに生活費を稼ぐ仕事が加わると自分が生きてるのか死んでるのかわからない、めまぐるしさだ。もし、自分が倒れたら…‥と想像すると、母親はめまいがするようだった。

政府の子ども支援を機に、母親は仕事をやめ育児に専念することにした。

もちろん、給与30万円を受け取るかどうかは育児者次第だ。国からの給与を受け取る場合には、ほかの仕事ができない仕組みになっている。

仕事が生き甲斐だという母親もいるだろう。その場合は特別サポートといって、ベビーシッターを24時間無制限で依頼できる支援を申し込むことができる。利用できる子どもの年齢は中学生まで。といっても、利用する家庭の大半が小学生家庭だ。これも<子どもバッジ>で可能だ。


・・・

母親は近くのスーパーにいき、マジックペン、体育服のワッペンを購入するため店員に<子どもバッジ>を見せた。
レジの表示が「0」と出て

「ありがとうございました」
と店員がシールを貼る。

育児に必要なものはお金がかからない仕組みになっている。成人するまで、すべてのものが無料。

子どもがいる家庭まるごと、国が支援してくれる。医療費、給食費、園生活や学校生活に必要なもの全部、高校、大学入学金と授業料、教養費としての博物館や美術館入館料、コンサート代、遊公費、移動費としての航空チケットや電車代……<子どもバッジ>があればすべてが無料。我が子とさまざまな体験を通し、自分も含め家族みんなが成長できる。

教育費が一番かかるといわれる子どもの大学費用全般を、国がぜんぶサポートしてくれるというのはなんとありがたいことか。ただし、大学入学試験の難易度は過去最高。勉強がそこそこできるレベルではまったく歯がたたない。

そこで親は子どもを塾にやる。塾代も無料であり、勉学したい子どもは誰でも入塾できたが、試験に関しては容赦なかった。

とりあえず大学に……という意識ではまったく立ち行かない。だが、それもいいのだ。

勉学だけが人生のすべてではない。最高学府である大学機関は専門知識を学び深める場だ。勉強が嫌いな子どもを無理に行かせる場ではない。

スポーツに関しても、芸術に関してもそうだった。誰もが無料でその門戸を叩くことができる。

そのあとは、子どもたち次第なのだ。親は子どもたちをそばで見守り励まし、応援する。国は全力でサポートする。そこには、どのような才能が花開くかわからない楽しみがある。


・・・

母親はスーパーを出て、帰り道がてらカフェに立ち寄った。少し小腹が空いている。

母親はブラックコーヒーとモンブランを注文した。この一人の時間がたまらなく愛しい。母親はコーヒーをゆっくり飲み、スマホを出してSNSを見る。

モンブランを一口食べ、今日の夕食はなににしようかと考える。”考える時間がある”ということは、母親にとって別世界のようだった。

店内が少し混雑し出したのでカフェを出ようと、母親は店員に<子どもバッジ>を見せる。

「ありがとうございました。毎日お疲れさまです」

店員は軽く会釈し、母親はレジを後にした。お金はもちろん、かからない。

24時間1日も休まず子育てに奮闘し、この国の人間を育てているのだ。こんな責任感の重い、素晴らしい仕事はほかにあるだろうか。

子どもは成人すれば納税義務を負う。この国に恩返しをしつつ、自分たちの文化を引き継いでいくのだ。

母親は思う。子どもを産むことでいろんな世界が広がっていく。子育ては楽しい。そう思える女性が増えればもっと子どもが増えるかもしれない。

先ほどのレジの店員はどうだろうか。20代の女性に見えた。こちらを眩しそうに見つめていた。

きっとあの女性も、そう遠くない将来、政府の支援を受けるのだろう。


kids badge


母親は商店街に入り、夕飯の献立を考えていると、八百屋の店先に政府の広告が貼ってあった。

<202✖️年 10月1日より子ども新政策始まります 子ども一人誕生祝い200万円支給>

母親は考えた。
4人目、がんばろうかな……。

八百屋の主人が声をかける。

「今日はニンジン、じゃがいもがお買い得ですよ!」

母親は<子どもバッジ>を手にし、店頭に山ほど積んであるじゃがいもを、買い物かごへ10個ほど入れた。

今日はカレーだ。食費を気にせず、子どもたちにお腹いっぱい美味しいカレーを食べさせてあげられる。子どもたちの喜ぶ顔が目に浮かぶ。

それから、習い事もたくさんさせてあげよう。興味のある中から夢中になれるものを見つけ、人生の喜びになってくれたらいい。語学も大切だ。海外留学にはある程度のお金がかかる。海外での国の支援はきかないから、誕生祝い金を利用しようか。

親にできることは、ほんのわずかだ。

買い物袋を両手いっぱいにさげた母親は、鮮やかな夕焼け空の下、家路へと急ぐのだった。

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