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短編小説「ホログラムの彼女」 第1話(全2話完結)

〈あらすじ〉
近藤カイは中学3年生。初夏のある大雨の日、クラスメートの田中ユイから傘を借りる。急速に接近していく二人。カイの幼馴染であるクラスメートの山野タクもまた、ユイのことが気になっていた。
そんな3人は、タクの叔父から手に入れた、世の中にまだ知られていないAIアプリ”Blue”、その”Blue”から誕生したコピー人間の存在に運命を大きく揺さぶられていく。奇跡のAIと出会い、彼らを待ち受けていたものとは__?

kai & ”Blue"


雨はまだ、全然やみそうにない。ひどいどしゃぶりだ。今まで傘を忘れてきたことはよくあるが、今日は忘れなければよかったと思う。

カバンのなかには進路調査表とかもろもろの書類が入っていて、先生は明日までに必ず持ってこいと言っていた。このままだと家に帰り着く前にカバンもろともびっしょりだな。

おれはつくづく自分はついてないと思った。運の悪さは他人のそれよりピカ一だ。

「傘、忘れたの?」

振り向くと、同じクラスの女子が立っていた。顔はわかるが名前が出てこない。

「えーと、うん。まぁ」

「そんなときも、あるよね。置きっぱなしだったわたしの傘、あるけど使う?」

彼女は手に2本の傘をもっていた。一つは赤地に黄色の丸模様がてんてんとついたデザインの傘。もう一つは青地に白いレース模様デザインの傘だった。正直、どちらもおとこが使う傘じゃねえだろ……と思ったが、濡れるよりましかもしれない。

「いいの?ありがとう……。じゃあ、青いやつを。ええと……」

「田中だよ。田中ユイ。まだクラスメートのなまえ覚えてないのね、近藤カイくん」

「ごめん」

「あやまるほどのことじゃないよ。はい、傘」

おれはまわりをなんとなく見まわし、彼女の青い傘を受け取り、小走りに家へ向かった。心臓がバクバクしている。

女物の傘をさしている姿を同級生にみられたくなかったからなのか、女子のものを借りているおれ自身を恥ずかしいと思ったからなのか、よくわからない感覚に戸惑った。

おれと彼女は中3の初夏、そんなふうにどしゃぶりの雨の日に、出会った。


田中ユイは両親が離婚していて、母親と二人暮らしだった。仕事で忙しい母親のために家事のいっさいを引き受けているようだ。

おれたちは家が近く、近所で彼女の買い物姿をよく見かけた。ユイは同じクラスの女子たちよりもずいぶん小柄で、肩までのびた髪を結ばずにそのまま下げ、休み時間にはいつも読書をしていた。

一人が好きなのか、ともだちを作るのが苦手なのかわからないが、彼女に話しかける人は多くない。おれもそのうちの一人で、新学年が始まり、あっというまに夏近くになっていても、彼女の名前を覚えていなかった。ただ、終了チャイムが鳴って下校時刻になると、真っ先に教室を出るのはいつも彼女だった。

おれの親は共働きで、留守番はおれの仕事だった。おれは長男で、したに弟が二人いる。小学校低学年のふたごの弟たちの世話がおれのメインの仕事。

といっても一緒にゲームをしたり、漫画を読んだりという具合で、「世話」とは程遠いのだが、親は毎月の小遣いをまわりの友人たちに比べ多めにくれた。おれはその金でたまに友人と映画にいったり、友人にジュースをおごってやったりした。

そんな生活があたりまえだったから、近所の商店街でユイをみかけたとき、ユイが買い物中しかめっつらをしていたり、指を追って計算のようなしぐさをしている姿がなんだか興味深かった。


「なにしてんの」

おれはユイに近づき彼女に声をかけると、ぱっと振り向いた彼女は少しだけはにかんだ。

「近藤くん。今日の献立、なににしようかな」

「なんでもいいじゃん」

「そういうわけにはいかないよ。おかあさん、毎日がんばってるもんね」

「おまえも頑張ってるじゃん。いつも宿題の提出、早いしさ。それに家の仕事もあるんだろう。料理とか、掃除とか」

「生きてる以上、家のことはあたりまえにしなきゃだよ」

「それ、おれに言う?」

おれは、家事はさっぱり……という困ったような表情で、両手をひらひらしてみせた。ユイは含み笑いをしつつ、野菜コーナーに目を向けた。

「近藤くん、ほら。きょうは人参3個で98円だよ。すごくない?」

おれはなにがすごいとかさっぱりわからなかったが、ユイがすごくがんばっていることだけはいつも感じていた。だからなのか、彼女を見かけたら声をかけずにいられなかった。

べつに女子に声をかけなくったって、おれの日常はなにも変わらないのだが、彼女に話しかけることが、おれにとって彼女の重荷を少しでも楽にしているような気がした。

おれとユイはなんとなく並んで歩き、お互い無言だったが不思議な心地良さがあった。彼女もそう感じていたかもしれない。

ユイはときどきおれのほうをみては前を向き、ふと空を見上げたりした。そんなひとときは、夕焼け空に包まれたあの頃を思い出すような懐かしさと切なさが混同しているような時間だったと思う。


「あれ。カイと田中じゃねえの」

「おお、タク」

声をかけられるまで、おれたちは彼に気づかなかったらしい。山野タクはおれと席が近いクラスメートだ。

身長はおれよりやや高く、学校成績は互いに追い越し追い越されるくらいの同程度。タクとは、休憩時間によくしゃべっていた。

なんという話でもなく、次の授業までのなんとなく時間つぶしのような会話だった。おれにとってタクは普通の見た目に思えたが、なぜかクラスの女子からはモテていた。

おれは部活に入っていない帰宅部だったが、タクはバスケットボール部。うちの学校はバスケ強豪校だから応援に行く女子が多く、きっとそれが関係しているのかもしれない。べつにおれにとってどうでもいいことなのだが、女子からの視線を投げられる同じ空間にいることだけはなかなか慣れない。慣れたくもない。

「田中と仲が良かったのか。へぇ」

「そんなんじゃねぇよ」

「うそつけ。田中、買い物?」

タクはユイに声をかける。ユイはうつむき加減にうなづく。

おれと話していたときの穏やかな表情がユイから消え、どちらかというと少しこわばったように見えた。歩く速度も気のせいか早くなった。

おれはユイの歩幅に合わせたかったが、タクがおれの肩に手をまわしたおかげでユイを後ろから眺める形になった。

「ふーん」

タクはおれを横目に見た。なにか言いたげそうにしていたが、黙っている。タクのつぎの言葉をまつ間もなくおれは言った。

「タク、おまえさ、かんちがいしているようだけど。おれと田中はちょっと家が近いだけで、たまたま一緒に帰ってたんだ」

「ふーん」

それだけ言って、タクは黙った。ユイを後ろから眺めつつ、おれたちは一言もしゃべらなかった。ひまつぶしの会話もないくらいに、ただ静かな時間が流れていく。

ふとユイが振り向き、じゃあここで、といって交 差点を曲がった。いつもならまだまっすぐの帰り道、ほかに寄るところでもあるのかと思いつつおれはうなずいた。

隣のタクみると、近くて遠い何かを見るような目をしていた。おれはその目の意味が、なんとなくわかるような気がした。


kai  & taku

・・・

翌日、朝礼が終わったあとの少しの休み時間に、タクはおれに声をかけた。

「カイ、ちょっといいか」

「うん、なに?」

おれとタクは昨日、変な沈黙のまま別れたのだけど、朝になればそんなことはもうどうでもいいくらいに、互いのことはわかりあっている。少なくともおれはそうだ。タクとは小学3年生のときからのつきあいで、今つきあっている友人たちの中でも特に古い友人だった。

「カイ、面白いアプリがあるぞ」

「へぇ、なにそれ」

「生体認証で本人にかなり近い形の3次元自分が作れるアプリさ」

「なにそれ。どんなやつ?」

「おれも昨日ダウンロードしてみたんだけど、なるほどの出来でさ。今日、おれのうちに遊びに来る?」

「うん、いく。」

おれはタクとたまに家を行き来していたが、遊びにいくのは3か月ぶりか。中3になっていろんなことが急にあわただしくなったせいもある。勉強はもちろん、受験する高校とか、将来の夢とか。勉強ということで教科書をまるごともっていけば親になにもいわれないだろう。

その日はいつものように授業諸々たんたんと過ぎ、6時限目の終了とともに帰り支度をした。ユイは家の仕事があるからか、手早くカバンに教科書を詰め込み教室をでていった。

おれはタクの支度を待って、一緒に教室を出た。タクの家は、おれの家とは反対方向の広々とした住宅街にある。宅地開発された、どの家も新築ばかりの、まるで撮影所のセットのような街だった。

「おじゃまします」

おれはくつをならべ、タクの母親に挨拶をし、重たそうにカバンをもって玄関から上がる。これから勉強に励む様子に見えただろうか。おれはタクと目で合図をかわし、まじめな顔つきをこしらえた。

「近藤くん、久しぶりね。ゆっくりしていってね」

「はい、ありがとうございます」

おれは軽くえしゃくして、タクの部屋に入った。机とベッド、部屋の中央に透明なテーブル、本棚などいたってシンプルな家具が並んでいて、おれの雑多な部屋とは大違いだ。

「で、アプリってどんなの」

おれは待ちきれないような心持ちでタクにきいた。

「まぁまぁ。まずは教科書をひろげようじゃないか」

そうだ。おれたちは勉強をしているふうにしなくちゃ。透明なテーブルに所せましと教科書を広げ、おれはタクをちらと見た。

タクはカバンからスマホを取り出した。

「これなんだけど」

スマホを指で素早くスクロールし、目的のアイコンを見つけるとタップした。とてもシンプルな、青い人型のマークをしたアイコンだ。アプリが起動し、画面が青く光る。

最初にいつくか英語で言葉が流れたあとスマホの画面が光りだし、その光がいくつかの粒子の塊を作っていく。そしてそれらはだんだん人の形になり、やがて人物が現れた。

スマホスクリーン上におさまるくらいの小さな人物は実に立体的で、それはまぎれもなく”山野タク”だった。小さなタクは上下白い服をまとい、顔をよくみると本当に彼そっくりだ。


"Blue"

「いいか、みてろよ」

そういうとタクはくちを大きく開けて”ようこそ”と言った。数秒遅れて小人タクも”ようこそ”と言った。

タクの声に違いなかったが、声としてはぎこちなく、耳をすまして音をとらえられるかどうかというくらいの、とても小さなものだった。

「このアプリさ、おれの叔父さんが開発したんだ。まだ世にでていないものだけどおれが試しにある程度使ってみて、あとで叔父さんに使い勝手を報告するってわけ」

「へぇ。叔父さん、すごいな」

「うん。こういうアプリ開発を将来、おれも仕事にできたらなぁって、思ってる」

「どういう仕組みなんだ?」

「このアプリ、”ブルー(Blue)”には、生体認証機能を最大限高めたプログラムが入っている。叔父さんが言うには、人間のからだは電気のかたまりらしい。身体から発せられる微弱電流……たとえば声、指紋、そして目から、特定個人情報を採取する。顔認証のときの目ってさ、虹彩認識っていう、個人を特定するものとして特殊らしい。
アプリが起動すると、スマホから採取したそういった個人情報を可能な限り集約し、その情報をもとにスマホのライト機能を変換させて個人のホログラムを作り上げる。おれのスマホ内の特定個人情報から、こいつができたんだ」

そういってタクは、揺らめく小さな自分のコピーを指さした。ホログラムという言葉は知っていたが、まさかスマホからできるなんて、驚きだった。

「複雑な言葉は話せないけれど、簡単な発声ならできる。面白いだろ」

「うん。これ、おれにもできる?」

「できるさ。ただし設定がめんどうくさい。おまえの情報を可能な限りこのアプリ”Blue”に記憶させなくちゃならないからな」

「やってみたい」

おれは興奮していた。おれは近未来のロボットやテクノロジーを題材にした漫画が大好きで、そんな世界が突然おれの目の前にあらわれたような気がした。

タクの指示どおりに作業を繰り返し、自分の個人情報を集約したおれのスマホから、おれ自身のコピーを作り上げた。小さな自分。なんだかか弱くて、でもどこか滑稽にみえた。

「すげぇ……。科学の道はもうこんなところまで来ているのか」

「カイ。おれたちは大人になるころには、もっとすごいことが起こっているかもしれないな」

「うん、そうだな」

うまれたての小さなおれを見ながら、タクはいう。

「おれたちの目の前にあるこのホログラムは、本人がスマホから半径1m以内にいることが作り出せる条件なんだ。なぜなら人間の体から周囲に流れる電気はとても小さくて、距離があるほどにその力は弱くなる。スマホから離れれば離れるほどホログラムを作る電気も小さくなって、ホログラムは消える。
叔父さんはそう遠くない将来、人間の大きさに等しい3次元の完全なホログラム体を作るらしい。しかも、遠隔操作できるやつさ。おれたち本人が学校に行かなくても、学校におれたちはいるんだよ。先生の話も聞こえるし、こちらから質問だってできる。ホログラムは実態のない像でしかないけど、双方向のコミュニケーションがとれるから、家にいながら世界中どこだって行けるさ。だれもがもっている、スマホでね」

「うーん、ちょっと待ってくれ。それは2次元のレベルでもできることだよな。相手と話すだけなら画面を介してネットでできるじゃないか」

「顔を見ながら、だよな。それって、おれたちはこっち側にいて相手は向こう側にいるというだけだろう。叔父さんがやろうとしていることは、自分のコピーを向こう側に出現させるということなんだ。おれとおまえが遠く離れた場所にいても、おれがカイに会って話がしたいと思えばそこにリアルなおまえを連れてこれるという話さ。おまえがOKすれば、だけどね」

タクの話を聞きながらしばらくおれは頭が混乱していた。今のところスマホが無ければホログラムを作ることはできないし、どうやったら向こう側に行けるのだろうという疑問も湧いてくる。きっと、おれの今の脳レベルでは到底理解できないような技術が開発進行中なのだろう。

「好きな相手と話すとき、画面越しに会話するだけじゃ味気ないぜ。3次元なら、しぐさや全体の雰囲気が伝わるだろう。少なくともおれはそう思うよ」

タクはそこまで言って、うつむいた。タクの好きな相手というのはなんとなく気づいているが、確信をもたないままでいたい気がした。

「……原理はどうであれ、叔父さん、なんかカッコいいな」

「いや、今はまだまだ研究段階だし、技術的にもいろいろと高度な設定をもっとしなくちゃいけないらしいぜ」

「そうか……。だけどわくわくするな。おれ、こういう科学的な道に進もうかと思ってたんだ、進路。だけど、数学がやばいんだよな。勉強、頑張らなきゃだよな」

おれたちは笑った。
未来というふわふわしたよくわからないものに対し、おれたちはどうにかして目をこらし、自分の人生の道筋を作っていかなくちゃならない。

大人は”おまえたちは若い、未来はどうにでもなる”なんていうけれど、どうにもならない大人もいるってことをこどもは知っている。だから、おれたちはいつだって真剣なんだ。

大人からみるとおれたちは普段、なにも考えてなさそうに見えているかもしれないが、実際はかなり深いことを考えていたりする。いつだって。

おれはタクの家を後に自宅への道を歩きながら、片手にスマホを持ち続けた。この小さな機械に、自分の”可能性”という光が詰まっているように思えた。

・・・

「近藤くん、なにみてるの?」

ユイがおれに話しかけるまで、おれはまわりを完全にシャットダウンしていたらしい。気づけば終了のチャイムが鳴っていた。

「ああ、田中。うん、いま、新しくダウンロードしたアプリに凝ってるんだ」

「へぇ。どんなの?」

「ここじゃ、ちょっと……」

まだ誰もみたことのない、いままでにないアプリだ。ほかの誰かにみられて騒がれでもしたら、困る。おれはユイとの距離を意識しつつ、低い声で早口でユイに言った。

「田中、商店街の近くに公園があるだろ。いつもの時間、買い物が終わったらそこに来いよ。面白いアプリがあるんだ。おれは本でも読みながら、待ってるし」

「アプリ?」

「今までみたこともないすごいアプリだよ。田中、来るときスマホもってこいよ。それ必要だから」

「うん、わかった」

ユイは、唐突なおれの誘いに一瞬目を丸くしたが、すぐにうなずいた。それから互いになにか話すわけでもなく席を離れ、帰り支度をし、学校を後にした。

ユイは学校がおわったあといつも一人で、家のこといっさいを任され働いている。宿題もあるし、おれたちは受験生だ。勉強するのも忙しいのに、息抜きに遊ぶ時間なんてあるのだろうか。

あいつは真面目だから、きっと息抜きらしいことはしないのだろうな。成績だって……勉強時間が保障されているおれよりも、ずっと上だ。あいつにはたまの遊ぶ時間が必要だ。

おれは帰り道、ぼーっとそんなことを考えながら、自宅の玄関を開けた。玄関には靴が散乱し、おれはそれらを足でよけながら靴を脱いで自分の部屋へ入った。人の気配に気づいたのか、弟たちがおれを呼ぶ。

「兄ちゃん、おかえり。ねぇ、ゲームの続きしようよ。30分だけでも」

「今日はそんな気分じゃねぇよ」

「いつもゲームしたあと頭すっきりして、勉強はかどるって言うじゃん」

「そうだっけ……」

おれは部屋の壁時計を見て、ユイがどのくらいであの公園につくのか算段中で、弟たちが何を言ってるのか頭に入ってこなかった。

「兄ちゃん」

「今から出かける。おまえらは家でおとなしくしてろ。おれが帰るまで鍵を開けんじゃねえぞ」

「え------」

バッグに読みかけの本を2冊ほど入れ、着替えたあと台所でコップ一杯の水を飲む。そうだ。肝心のスマホ。部屋に戻りスマホを通学カバンから肩掛けバッグに入れなおす。

ユイはあのホログラムをみてどんな表情をするだろうか。びっくりして飛び上がったりなんかしたら面白いな。想像するだけでおれは気分が高揚するのを感じた。

商店街まで歩いて10分。その近くに公園があり、おれは公園につくとペンキがはげかかった青いベンチに座り、本を広げた。

公園には誰もいない。商店街は人通りが多いが、そこから少し離れたこの公園に入ると人通りは一気に減る。遊ぶ子もいないのは、遊具がほとんど壊れていて〈キケン〉のテープがぐるぐる巻きに貼り付けてあること、草が生え放題で歩きにくく、昼間でもどこかしら暗い感じがすることが理由なのかもしれない。

公園の木々は枝葉を四方八方に伸ばし、その間隙からこぼれた光が地面にさす。

おれはその光が好きだ。太陽からそそがれる強い光線を幾分か和らげ、おれたちを守ってくれるような気がするから。そんな光につつまれ好きな本を読む。心静かに、落ち着くひととき。

おれは本に夢中になっていた。目の前の文字が急に暗くなって、これは誰かの影だと気づいたときはもうほとんど、読み終わる寸前だった。

「近藤くん、お待たせ。待っててくれてありがとう」

「おお、別に。本を読んでたし。買い物、終わったの?」

「今日はいろいろと買い物多くて。荷物をいったん家に持ち帰って、ここに来たの。かな急いだけど時間かかちゃったね、ごめんね」

ユイは息を整えつつ、いつもの涼しげな目でおれを見た。


yui

「いや、全然いいって。本の続き読みたかったから。それより、スマホもってきた?」

「うん。これ」

ユイはスマホを差し出した。ピンク色のスマホカバーケースに、銀色のキラキラした文字”Y”が張り付いていて、彼女のイニシャルだろうと思いしばらく見つめた。女の子のスマホなんて、初めて触る。

「なんか、かわいいな」

「あれ。近藤くん、このかわいさわかるの?ふふ、女子ね」

「いやいやいや。それよりアプリだ」

顔が熱くなった気がして彼女のほうを振り向けず、うつむいたまま彼女のスマホを起動する。タクに教えてもらった手順で、おれはあのアプリ”Blue”をインストールした。

なにせまだ世間に公開されていないアプリだ。通常の手順では手に入らない。キーワードと数字をいくつか入力し、数分待つ。スマホ画面に青い人型アイコンが出現した。アイコンをタップし、あのときのように個人情報を入力する。

おれはユイにスマホを返し、声、指紋、目の特定個人情報を入力させたあと、アプリの質問にそって回答するのを手伝った。ユイはわけがわからぬまま、おれに指示されたとおりに事を進めていく。

情報入力が完了し、スマホが青白く光った。短い英語が流れたあと、スマホ画面上にユイのホログラムが現れた。

ユイそっくりの、小さなそれは白いワンピースを着て佇んでいた。おれやタクのそれは小人のようだと思ったが、ユイのは本人をそっくりそのまま尺度を縮め、可憐な人形にしたかのようだった。

「わぁ。なにこれ、すごい……」

「これ、田中のコピーだよ。ホログラムっていうんだ」

「私の?」

「うん。自分の情報をたくさん入力しただろ。その情報をもとにアプリが自分のコピーを作るんだ」

ユイはじっと自分のホログラムを見つめ続ける。初めてみる世界。初めて出会う、新しい自分。

「田中、ゆっくりなにか、しゃべってみて」

「なにかって……。じゃあ……、は・じ・め・ま・し・て」

ゆらゆら揺れているだけだったユイのホログラムがゆっくりと口を開き、声を発した。

<は・じ・め・ま・し・て>

とても小さな声だったが、人気のない静かな公園に、それはゆっくり響いた。声質も本人にそっくりだ。ユイは湧き上がる衝動を抑えきれないようなキラキラした目でおれに言った。

「本当にすごい。びっくりだよ。漫画の中の、世界みたい」

ユイと目が合って、その一瞬、おれたちは別世界を共有する仲間のように思え、同時にその視線は熱を帯びた光ような気がして、おれはすぐ目をスマホに戻した。

「おれもはじめて自分のものをみたときは、漫画の世界がここにあるって思った。これ、まだ世間に知られていないアプリでさ、山野の叔父さんが開発したらしい。まだ簡単な発声しかできないらしいけどね」

「クラスメートの山野くん?身内にそんなすごいことできる人がいるって、自慢だね。すごく面白いなぁ、これ。そうだ、ちょっと寂しいなって思うときは、これからこのもう一人のわたしに話しかけてみようかな」

「いや、それは……。自分とは会話できないぜ。ていうか、田中、寂しいときってあるの?」

ユイはふと顔を上げ、だれもいない公園の、壊れたブランコのほうを見つめた。”キケン”のテープがぐるぐる巻きにされ、かすかに揺れることも許されないそのブランコは、誰を待つでもなくただそこに在るだけだった。

沈黙の時間が流れ、おれは質問の返事を待ったが、ユイは黙ったままだ。風がさあっと吹き、ユイの髪が揺れた。

そのとき、髪の毛1本1本が光を帯び、きらきらと透明に輝くようだった。その髪の隙間からのぞく彼女の目は、しっとりと水気を含んだ綿のように見えた。

ユイはおれの顔を見るともなく言った。

「お母さん、もうすぐ再婚するんだ。引っ越しするし、転校もする。ここから随分とおい街。だから、もうみんなと会えなくなるね……」

ユイが、自分のことを話すことなどめったにない。おれは余計なあいづちをうつよりも、彼女の言葉をもっと聞いていたいと思った。

「私ね、家の仕事するの嫌いじゃないよ。学校から帰って買い物いって料理したり、掃除したり、洗濯物とりこんでたたんだり、お母さんの役に立てているって思うとうれしくて。ともだちと遊ぶことはほとんどなかったけど、大切なひとのためになにかできる自分であることのほうが、わたしにとって重要だったの。でも……こんなふうにすこしの時間、だれかとお話するって、すごく楽しいなぁって。

近藤くんに傘を貸したあの日から、わたしはきっと、なにかべつの宝物を見つけたんだと思う。わたしの今までの人生にはなかった、ささやかな宝物。近藤くん……」

18時のチャイムが商店街から流れてきた。

「近藤くん、今までありがとう」

話し終えた彼女の目は、水気を帯びた綿に光の粒が吸い込まれていくような美しさだった。おれはなにか言おうとしたが、声が詰まってでてこない。

のどの奥のほう、もっと奥の、心臓のあたりが苦しくて、息をするのさえ難しくなったようだ。

ユイ、おれだって……。
きみと話ができるのがこんなに楽しくて、でもちょっとだけせつなくて、この時間が永遠に続けばいいと、何度思ったことか。

いつも頑張っているきみが少しでも笑ってくれればいいと、それだけを願っていた。おれにとって一番大切なこと。

胸にあふれる想いが言葉にならず、おれは絞りだすように言った。

「おれのほうこそ、ありがとう。……だけど、これっきりじゃあないだろ。転校しても、なにかあれば連絡してこいよ。あ、連絡先」

おれとユイは番号を交換した。そして、ユイは、はにかみながらピースサインをした。か細い彼女の二本指のシルエットを、一生忘れないように目に焼き付けていたい。そしておれのことをずっと忘れないでいてほしい。

おれもピースサインを返す。ユイはひだまりのような柔らかな笑顔で、おれたちのピースサインを見つめていた。

公園の木々の間から、人影がまばらに見える。会社勤めの人たちがちょうど帰宅しはじめた頃合いなのだろう。弟たちはちゃんと留守番しているだろうか。宿題も、まだだったな。

「家まで送ろうか」

「大丈夫。わたし自転車でここに来たし、すぐ帰って支度しなきゃね」

「そうか。気を付けて。また明日、学校で」

ユイは微笑みながらうなずき、スマホをバッグにしまい、公園の出入り口に置いている自転車へと走っていった。車輪の乾いた音が、遠くに去っていく。

おれはしばらく動けなかった。目の前の景色が、輪郭をもたないぼやけてくすんだ絵のように見えた。

その日を最後に、ユイは忽然とおれの前からいなくなった。

*「ホログラムの彼女・第2話」に続く




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