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ショートショート「ある芸術家の苦悩」

その芸術家は悩んでいた。
思ったような作品が作れなくて1年がたとうとしている。

芸術家の作品は絵画だった。
繊細な色彩を放つ独特の世界観で、ファンも多い。展覧会を開こうものならファンが長蛇の列をなし、握手とサインを求めたのだった。

作品が売れていたころは、心に浮かんだものを感じるままに具現化することができた。自分が感じたものをキャンバスにそのまま投影し、人々を魅了することができた。

しかし今は違う。どうにも手が動かない。
芸術家が表現したいと心から願う作品を完成させることができないのだ。

作品ができないから展覧会も開けない。
しばらくはファンから<新作を楽しみにしている><次の展覧会はいつ開催されるのか>などメールをもらっていたが、1年が過ぎたころには、誰からもメールがくることは無くなっていた。

芸術家はその晩、少量のカクテルを片手に窓辺に立っていた。
風に当たっているとなにもかもどうでもいいような気がしてくる。

ふと暗闇に眼を凝らすと、木々の間になにか小さなものがこちらを見ている気がした。

「あれはなんだ?」

芸術家はもっとよく見ようと身を乗り出そうとしたそのとき、その生き物は音もなく近づきこう言った。

「はじめまして。私は悪魔です」

「悪魔?そんなものがこの世に存在するのか」

「はい。たまにこうして人間の前に現れたりするのですが、私たちに一生ご縁などない人もいます」

「そうなのか。ではおれは君と縁があったということなのだな」

「はい。わたしはずっとあなたを見ていました。苦しんでおられるようですね」

「そう見えるのか。おれもいよいよ運の尽きか。悪魔なんかに話をしてもどうにもならない。きみ、よそへいったほうがいいよ」

「いいえ、あなたのような人こそ私の助けが必要ではないかと思いますよ」

「どういうことだ?」

「芸術家のあなたは思ったような作品づくりができず、困っておいでです。新作を発表できず展覧会も開けない。そこでご提案なのですが、私が力をお貸ししましょう。あなたがこういうものを描きたいと思ったままの作品を描く力です。あなたは十分満足できる。新作を次から次に生み出すことができ、その作品を鑑賞するファンをたくさん喜ばせることができますね」

「なるほど、悪くない」

「そうでしょう。私があなたにお貸しする力には、特別なものがありますから。ただし…条件があります。あなたが描きたいと思った想念、つまり人間の念には相当な力があり、これを一部、私への報酬としていただきたいのですが」

「念が報酬?面白いことをいうものだな。おれはてっきり、魂がとられるのかと思ったよ」

「今どきの悪魔はそんな幼稚な条件取引などしませんよ」

「おれは描きたいものがやまほどあるんだ。わかった。取引しよう」

「ありがとうございます」

悪魔は瞬間移動をしたように、ふっと目の前からいなくなった。
芸術家は夢でもみているかのような気分だった。

・・・


芸術家は翌朝さっそくキャンバスに向かい、筆に絵具をのせる。
いつか描こうと思っていた子ども時代の風景を思い出し、目を閉じる。ああ、思い出の中に鮮やかな色彩がよみがえってくる。

絵筆はどんどん進み、1時間たらずで作品を完成させることができた。
十分満足いく作品だ。これを新作として発表しよう。

それから芸術家は次から次に、斬新なタッチや色使いで新作を発表し続けた。展覧会のスケジュールが瞬く間に埋まっていく。マネージャーを3人増員し、全国各地に芸術家の絵が運ばれていった。


Creation by sato


悪魔と契約を交わして3年が過ぎたころ、芸術家は再び絵筆を取れなくなっていた。

今度は深刻だった。描きたいと思うものが見つからない。
以前は描きたくても思うように描けないジレンマに苦しんだが、今は描きたいという衝動そのものが消えてしまったように思う。

これは困ったぞ。
そういえば悪魔は言っていた。”念”を報酬にもらう、と。

念とは心の中の描きたいという衝動だったのか。
そういえば年々、描きたい気持ちが減っていったように思う。新作を描き続けるのと展覧会で忙しかったからそれほど気にも留めなかったが、描きたい気持ちが湧かなければ絵を描きようがない。こんなことならば満足いく表現ができなかろうが、悩み続けたほうがましだった。

芸術家は白いキャンバスを前に、ただ一人、立ちつくすだけだった。

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