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何を選ぼうかな


この前、何かしらの書類を書いた時のこと。何も考えず自分の年齢を「26歳」と書き込んでしまった。
「いや、間違えた。28歳やん」と独り言を言いながらもう一枚書き直した。
年々自分で自分にツッコむことが増えている気がする。

単純に老いかと思った。
でもそれと同時に、「あ、私って自分の年齢、あんまり認識しながら生きてないんかも」ということに気がついた。

アラサー、アラフォーといった言葉、「もう〇〇歳やし」といった年齢という基準で何か一区切りしようとする風潮、ただの数字なのになんでこんなにも人はそれに左右されているんだろう、と昔から不思議に思っていた。

多数決をとった時に自分が少数派でも、「だってこっちの方が心に響いたから」と言っていたような自分は、いつだって表面上のものよりも内側の反応に従って生きていたのだと思う。

思えば自分の性別を気にしなくなった時も、生物学的に表面上の区別があるのはどうしようもないとして、心の中まで男女でなぜわけているのだろうという疑問から、色んなことに対しての境界が曖昧になっていった。

大阪に住んでいた頃の記憶なのだが、「おばちゃん、何歳なったか最近自分で調べな忘れてまうねん」と笑いながら言っていたおばさんがいた。誰だったかはぼんやりしているのだが、その時は「なんで自分の年齢を忘れるんだろう。そんなことあるのかな」と不思議に思っていた。
でも、今になってようやくわかった気がする。


何にもとらわれずに生きていると、年齢なんか気にする必要もなくなるのだと実感している。
考えてみれば、規律ばかりのコミュニティを抜け出して自分の行きたい場所へ行きながら歩んでいると、いつの間にか自分の周りにはそんな人が沢山いることにも気づいて。

私は前々から数字や人気といった表面上のものよりも、その中にある本質的なものを大事にしたい人だ。
性別、年齢、肩書き、身なり、フォロワーの数、経歴・・・。
外側からその人を判断できる材料はいくらでもある。

でも会話をしてみて、その人の態度や発する言葉から見てみるほうが私はよっぽど信頼できる。
いくら若かろうが素直に子どもを尊敬する瞬間があるし、位の高い肩書きや輝かしい経歴なんてない人だって十分生き方が素敵だと思う時もある。

もちろんそうでないタイプの方もたくさん見てきた。
自分の勝手な解釈から編み出した偏見できちんと話を交わす前に切り捨てる人や、憧れの人と繋がりたいとか物が貰えるからこの人と便宜上は繋がっておこうという人間関係を築く人もいたり。

それで傷つく人もいると思う。ただ、私はお互いにその関係で成り立っているなら別にいいとも思っている。人に興味があるのかないのか、その人にとって何が人生の大部分を占めているのかが大事な気がするから。
だからこそ、自分は何を求めて生きているのかははっきりしていたいものだ。

誰にでも優しく人当たりのいい人間でいようとする心持ちは素晴らしいけれど、下手をすれば全く人に興味のない人に不本意に傷つけられたり自分の限りある時間を奪われることになりかねない。
私も昔はそう思って誰にでも同じように優しくしていたけれど、それがきっかけで苦しめてしまった友人もいた。

そのためにも「自分が関わりたいと思う人ってどんな人なんだろう」と自分の心に問いかけることが、生活を豊かにする一つの手段なのだろうなと感じている。
良い意味で「選ぶ」ことが大切なのだと。


気づけばとても過ごしやすい毎日だ。これからも外にある記号に囚われずに自分自身を大切にしながら、そばにいてくれる周りの人を大切にしていけたらなと思う。

私にとって生きる上で大切なのは「愛」が宿っているかどうか、だ。

読んでくださりありがとうございます。 少しでも心にゆとりが生まれていたのなら嬉しいです。 より一層表現や創作に励んでいけたらと思っております。