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ワールドカップが生み出す内側と外側の「儀式」〜 今週の気になった記事から

FIFA ワールドカップでの日本代表の快進撃。

このところ、いろんなことの「儀式」化についてボンヤリと考えることが多かったせいか、いろんな記事を読んでは、なんとなく「儀式」側に寄せて、象徴的な内側と外側の話としてとらえることが多かった。

国旗を背負って戦うスポーツの試合は、何かにつけ「儀式」化しやすいわけだけど、そこで何が起きているのかを考えれば、たとえば会議においてしっかりしたアジェンダをつくったり、分析資料を書くにあたってフレームワークを使うこと自体が自己目的化するプロセスを考えるうえでの大きなヒントを与えてくれるような気がする。

イギリス人はドイツ嫌い?

まさかのスペイン戦での勝利。これを伝えた記事(というか表紙)でいちばん印象に残ったのがこれ。

英タイムズ紙 デジタル版のスポーツ欄の表紙だ。見出しの「The ball stays in… Germany crash out.」は、「ボールは内側に残り、ドイツは外にはじき出された」みたいな意味。

英国らしい皮肉(というかイヤミ)の効いた、なかなかスパイシーな出来映え。
とはいえ、ちょっと気になるのが、この見出しの強調ポイントが日本の快挙というよりは、その結果、ドイツが決勝トーナメントに進出できなくなったことのように感じられるところ。

日本代表がスペインに勝利したことではなく、ドイツを敗退させてことに対して「でかした日本!」といっているようにみえる。

イギリスの人って、やっぱりドイツ嫌いなのか?

「欧州」ってひとくくりにされるけど、イギリス人は基本的に「大陸」側の人が好きじゃない。とくに嫌われているのは、お隣のフランス。ドイツには第二次大戦でヒドイ目に遭わされたので、フランスに負けず劣らず嫌いなのかも。

ワールドカップが生み出す内側と外側

そんなことを考えたのは、イギリスで10数人のポーランド人と一緒に観た、2006年 ワールドカップのポーランド対ドイツの試合を思い出したから。

そのころ私は、8人のポーランド人が住むシェアハウスに(唯一の「外国人」として)住んでいて、そこにで知り合いを集めたパブリック・ビューイングが行われたのだ。

グループリーグでポーランドがエクアドルに2-0で敗れたときは、「お〜い、何だよ!」「ぜんぜんダメじゃん!」みたいな、意外に明るい声が飛び交っていたけど、これがドイツ戦になると、場の空気がガラッと変わった。

最初から最初まで、誰も口を開かない。身じろぎもしない。「固唾をのむ」とか「重苦しい空気」とかいうのは、こういうことなのかと思った。

「パブリック・ビューイング会場」の部屋に充満していたのは、ドイツがゴールを決めた瞬間に、うっかり「お〜っ!」と声を上げようものなら、ふつうに歩いてこの部屋を出ることはできないだろうと思わせる殺気だった。

ポーランドは、第二次大戦でドイツに(イギリスどころではない)ヒドイ目に遭わされているし(後で聞くと、「あのときはうちのジイサンが…」みたいな生々しい話が出てくる)、その後のドイツとの関係でも、ポーランドで頭角をあらわしたサッカー選手の多くがドイツのリーグでプレイすることになる状況が、そうした関係をいっそう複雑なものにしている。

ワールドカップは、そこに集まったポーランド人たちに、1つの国の内側にいる一体感を与える。しかし、それは同時に、その外側もつくり出す。外側の対戦相手国がこれまでいろいろと一筋縄ではいかない関係にある場合は、そうした国どうしの関係の歴史をなぞる「儀式」として働くということだと思う。

あいまいな儀式と現実との境目

2010年のワールドカップのときに書かれた英ガーディアン紙のコラムに書かれているのは、ワールドカップは強力な「社会的な一体感(social togetherness)」をつくり出すということ。

固唾を呑んで試合を見守る1〜2時間の間は、「何百万人もの人と感情的に一体化する」から、ふだんの生活で感じるバラバラな個人としての疎外感を忘れることができる。

もちろん劇場やコンサートでもそうした一体感を感じることはできる。でも、ワールドカップが生み出す一体感はもっとパワフルだ。たとえばクリスマスとか、英国王室の大規模な行事のように。

宗教にもそうした力はあるけど、現代の宗教は一体感だけでなく分断も生み出すことがある。だから、これほど大きな規模の一体感を生み出すのはスポーツだけだといっていい。

コラムにはそう書かれているけど、ワールドカップも一体感だけでなく分断を生み出すことになる。パワフルな「内側」意識をつくり出すということは、同時にその「外側」もつくり出すことだから。

そういうわけで、サッカーの試合という「儀式」空間につくられた外側への攻撃性が現実の側に向けられると、暴動という形を取ることになる。

2006年のワールドカップのとき、イングランドが試合に敗れた直後にパブから出てきた男性が、道路脇に停められた自転車につぎつぎと蹴りをくらわせ、スポークをバキバキにしながらのノシノシ(&フラフラ)歩いていたことを思い出した。


「神の手」ゴールの内側と外側

そういえばこんなニュースもあった。

1986年のワールドカップ準々決勝のアルゼンチン対イングランド戦で、ヘディングしようとしたマラドーナが左手で先制点を決めたときのボールがオークションにかけられ、日本円で約3億3千万円の値を付けたとのこと。

このゴールも、アルゼンチンが1982年のフォークランド戦争でイギリスにひどい目に遭わされた経緯を念頭に置くと、「神の手」の「神」にとても深い意味がこめられていることがよく分かる。4年前にひどい目に遭わされたイギリスをコテンパンにする「天罰」ということだ。

ワールドカップが生み出す内側と外側が、ここではしっかりと宗教と結びついている。

それにしても、今回の大会で「ドーハの1ミリ」を生み出したVARのテクノロジーがこのときにあれば、マラドーナの「神の手」ゴールは生まれていなかったことを考えると、「テクノロジーが世界を変える」的な物言いは、あながち誇張じゃないぞと思えてくる。

ワールドカップで使われているVARには、ソニーのテクノロジーが使われている。

すると、「日本はすごいぞ!」みたいな声が上がったりするところは、ワールドカップと同じように、内側と外側を生み出す「儀式」パワーが働いているような気がする。

最近はとんと耳にしなくなったけど、「『日本的』経営はすごいぞ!」みたいな。

もっともこのテクノロジーそのものは、ホークアイ・イノベーションズという英国の会社が開発したもので、2011年にソニーがこの会社を買収したから、「日本の」テクノロジーということになっている。

本当は、「英国はすごいぞ!」と言わなくてはいけないのだ。

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