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人の役に立ちたいと強く思うことについて

これまでの人生を振り返ると、誰かに褒められるような生き方をしてこなかったなと思います。

だからなのか、いつの日か「人の役に立つ仕事をしたい」と思うようになったのではないかと自分では思っています。

今、僕は福祉の仕事をしています。
障害がある方の支援を日々しています。

実際、この仕事をしていると、利用者の方やそのご家族、それから関係者の方々から感謝の言葉や労いの言葉をいただくことが多いです。
そんな言葉を聞くと、僕はこの仕事をしていてよかったと思うのです。そして、もっと多くの人の役に立ちたいと思うのです。
そこにはやや強迫的な部分もあるのではないかと自分では思っています。褒められたい、人からやく見られたいという反動から無理してでも、人を助けることを優先してしまう。そんな風になっていないだろうかと思うのです。

きっと無理が祟って鬱病になったというところも少なからずあるのではないかと思ってきます。

SNSの承認欲求と似ているところはないだろうかと思うことがあります。いいねをもらいたいがために過剰な言動をとってしまう。私の場合は、人を助けることで称賛が得られるという経験をしてしまったため、それをまた求めてしまう。そして、なにか大切からものを犠牲にしてまでもそれを得ようとする。そんなことがここ数年、僕の中で起こっているのではないかと思っています。

承認欲求もそうですが、それを求めてしまう背景には子どもころの経験が関係していると言われています。
愛情もそうです。
子どもの頃に十分に褒められたり、愛情を注がれたりする経験が少ない子どもたちは大人になった時に、その時の反動で自分を認めてほしいという欲求が強く出てしまうとも言われています。

僕の場合、褒められるということが少なかったと自分では思っています。褒められるようなことをしないと、そりゃ褒められませんからね。僕はそういう褒められることをするような子どもではなかったのでしょう。
それは恐らくAD/HDという特性もやはり絡んでくることかと思います。

僕の場合、不注意が顕著にあるので、集中して授業を受けられなかったり、授業中に何か違うことをしていたりするので、どうしても注意をされることも多くなります。そして、勉強に対する意欲もなくなり、自尊心もなくなり、終いには将来なんてどうだっていいやと思ってしまう、そんな時期も僕にもありました。

けど、ある時に僕の特性を自分で気付けた瞬間があって、そこからはなんとか勉強も自分なりに工夫をしてやってみたり、授業中は相変わらず注意が散漫だったりしたけど、やってる風だけ先生には見せてました。

それからのりくらりと生きてきたわけですが、やっぱりらどこかで認められたい、褒められたい、賞とかもらいたいという欲は今でもあります。それが生きる糧でもあるんですが。

自分を誇れる人間になりたいですね。
今は全然、自分ではそんな風には思えないので、もうちょっとだけ頑張ってみようと思います。

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