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AD/HD僕の仕事変遷

AD/HDがある人に向いている職業としてよくネットなどで見かけるのは、「個人の技術力やスキルが要求される仕事や芸術・クリエイティブ系の仕事」というものです。

果たして、こういった仕事に就けているAD/HDがある人はどのくらいいるのだろう。

そして、本当にこういった仕事に向いているのだろうか。

AD/HDの特性とそれらの仕事の特徴で言えば、相性が良い部分があるかもしれません。

前書きはこの程度にしておきます。

さて、僕はこれまで大学を卒業してから社会人として働いた職種はレコード会社社員、教員、大学内相談室相談員、福祉施設職員、会社経営者の5つです。現在は時々、大学の講師、雑誌記事の執筆もやっています。

まず、大学時代の就活の話からします。

僕は当時、テレビ番組の制作をしたいと思っていました。しかし、志望したい会社は見事撃沈。ちなみにその時は、AD/HDの診断は受けていませんでした。だから自分がそういった特性を持っているという自覚はありませんでした。
とにかく仕事をするなら何かを作る仕事をしたいと思っていました。僕の場合、それはテレビ番組の制作でした。
大学時代のアルバイトは、テレビ美術のアシスタント、テレビ番組のエキストラやカメリハの演者役など、それから俳優養成所にも所属し、演技よりもテレビ制作のことについて学びました。
大学3年の時にはマスコミ予備校にも行き、意気揚々と就活に挑みましたが、全滅。もう一度確認のために言いましょう。

全滅!

意気消沈した僕を拾ってくれたのは、アイドルを売りにした小さな事でレコード会社でした。
制作ではないけれども、テレビに関わることができるだろうと、気持ちを立て直して、働き始めましたが、その年の夏には退職しました。
理由は、理想と現実の乖離とかっこよく言っておきます。まぁ、今思うとなんてことないことだったと思うんですが、社会人としては甘ちゃんだったんでしょうね。

仕事を失った僕は、大学を卒業した唯一の誇りと言える教員免許を持っていたので、教員をすることにしました。
採用していたらだいた都内の2校で非常勤講師をやりながら、プラスして派遣で工場勤務などもしていました。

教員をしている内に、教員という生き方もいいかなと思いだし(そもそも教員になるために教員免許は取った)、翌年、僕は大阪市の特別支援学校で常勤講師として働くことになりました。

なぜ、大阪?と思われた方もいるでしょう。

公立の学校の教員になるには、年一回行われる教員採用試験に合格しなければなりません(私立は独自に採用試験などを設けています)。または、非常勤や期限付きの講師などの募集が、あります。大阪市は登録制(当時)を取っており、僕はとにかく常勤として教員をしなければ生活はできないと思っていたので、東京から離れた大阪市にも登録をしていたのです。
3月の中旬頃でしょうか。時期はちょっと曖昧ですが、大阪市教育委員会から連絡があり、4月から生野区にある特別支援学校で常勤講師をしてくれという連絡でした。僕はふたつ返事をし、大阪へと旅立ちました。

大阪市の特別支援学校では2年間勤務をしました。担任もしました。それはそれは充実した二年間でした。担任をしていた子たちが卒業をし、タイミングとして、新たなステップを踏みたいと思い、僕は横浜にある、不登校だった子や発達障害がある子たちが通う高校に職場を移しました。

ここにはいろんな子たちがいて、僕は副担任や軟式野球部顧問として彼らに接したわけですが、指導をする上でもっと彼らについて知らないと(つまり発達障害について)、彼らに適切な指導はできないと考え、僕は発達障害について学ぼうと、1年でこの学校は辞め、大学院に行くことにしました。

大学院には6年間いました。その間、授業でもそうですが、所属していた研究室の取り組みで発達障害があるお子さんたちにSSTを実施するというものをやっていました。そこでたくさんのお子さん、お子さんと言っても高校3年生の子たちなどもいましたが、多くの子どもたちを見ることができました。修士課程を出た後は、大学の相談室で相談員として発達障害がある方の支援や指導もしていました。
また、大学院な行きながら公立中学校で特別支援教室の指導員もしていました。特別支援教室に来るお子さんたちは、発達障害や知的障害たと診断されている子たちもいましたが、診断はないけど勉強などで困っている子たちでした。そこでもいろんなお子さんたちを見てきました。

大学院博士課程3年の時に僕は適応障害、社会不安障害と診断され、大学院を大学しました。その頃、僕は結婚をしていたので、働かなくてはならない!と思っていました。人生の計画は狂ってしまいましたが、なんとか仕事先を見つけ、新年度から無事働き始めることになりました。

僕が働きだしたのは重度心身障害がある障害者施設でした。ここでは、初め、児童指導員として働き、その後、介護福祉士の資格を取りました。
最初は生活のために仕方ないから働いていたというのが正直なところです。基本的に2交代制で夜勤もしっかりとやっていました。
僕は夜勤の時間が好きでした。日中に比べて、静かで、スタッフの人数も少なく、やることはありますが、自分のペースで仕事ができたからです。でも、夜勤(ここは16:00-9:00)は心身に悪い影響を与えると、夜勤のない生活をして気付かされました。夜勤のある生活を長年している人は超人だと思います。よく行く心身を病まずにやっていられるなと思います。僕はよく憩室炎になりましたし、退職間際には帯状疱疹が出てしまいました。
2020年12月末で僕は退職をしていますが、2020年4月に起業をしました。福祉の会社を立ち上げました。事業は2021年1月にスタートしましたが、施設で働きながらそのスタートの準備をするために2020年の4月に起業をしたわけです。
準備は大変でした。と一言で言えるほど簡単なものではなく、帯状疱疹が出るくらいですから、かなりのストレスが僕にかかってたのだと思います。
2020年に起業、2021年に事業が始まり、2022年10月までにいろんなことありました。詳しいことについては、またどこかで記事にしようかなと思ってます。または、小説にしようかと思っています。それくらいいろんなことが起こって、今も起き続きてきます。
それでも、僕は立ち止まらずに進まなければいけない。社会のためでもあるし、家族のためでもあるし、一緒に働いてるひとたちのだでもあるし、でも、この僕に取っては混沌とした状況が続けば、僕がどうにかなってしまはないだろうかと心配ななります。
今は、薬でなんとかやり過ごしていますが、ほれもいつまで続けられるか。

AD/HDがある人は起業家に向いていると言われることがあります。
僕は向いてないと思います。今の現状の話ですが。
すべては環境だと思います。周りにいる人もそうだし。
僕は結果的に鬱になってしまっていますが、そうならないで、会社を経営するAD/HDがある人はいると思います。
僕もそんな風になれたらと日々思っています。



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