学歴社会と固定されたラベル


この記事で言いたいこと(結論)は。
『学歴によって貼られた価値が、その人の挑戦と可能性を奪っている』ことがある
(信頼の欠如→投資の欠如→自信の欠如→挑戦の欠如)


このテーマに興味を感じてくれたひと、学歴社会に疑問を感じているひと、受験に失敗したひと、学歴にコンプレックスを感じているひと、お母さんの方々、そんな方々に読んでほしいと思います。

私は普通の公立中学校から偏差値53ぐらいの高校に進学し、その後国立の体育大学に進学した、上にも上がらず下にも下がらず、いたって普通に進学してきた24歳です。
そんな普通の若者が思う学歴の弊害は3つです。

一つ目は、偏差値で学校を選ぶことにより、自分がなにをどこで学びたいのかという選択の機会を奪っている点です。


本来はどんな科目をどんな学校、先生のもとで学びたいのか、それをじっくり考えて進路選択する必要があると思います。その自問自答こそがいずれのキャリア選択、人生設計につながってくると考えるからです。
しかし学歴社会では最も偏差値の高いところに行くのが正解なわけですから、自問自答の必要はないわけです。その結果目的意識がなく、なんとなく進学する受け身な態度が定着してしまいます。



二つ目は、受験が読み書き計算という認知能力しか測定できないために、それ以外の教育が軽視されたきた点です。



例えば国際的な学力の比較に用いられるPISAテストでは、日本は諸外国の中でも常に上位にいます。しかし同時にとるアンケートでは日本の子供たちの学ぶ意欲は諸外国の中で最も低いグループにランクインします。
つまり勉強はできるのに学ぶ意欲は低い日本人というのが、比較調査から言われている結果です。
受験勉強で学ぶべき知識は明確ですが、そこにどんな興味深い事象があるのか、将来どんな風にその知識が役にたつのか、自分は何を深めていきたいのか、そんな根本的な部分は軽視されがちです。
だってそんなの進学に関係ないんだから、まずは目の前の受験勉強に取り組まなくっちゃとなるわけです。
その結果、勉強を通して学ぶ意欲や粘り強さ、クリエイティビティといった生活の基礎になる力を身につけたかどうか、生きる力という本来の学習指導要領の目標が形骸化、意識されにくいのです。


三つ目は、学歴によって階層性が高まり、高い階層にいる人はより多様な機会に恵まれ、一度失敗した人はなかなか上位の階層に行くことが難しいという点です。

最もシンプルに言えば未だに学歴の高い人ほど年収が高い傾向にあるという点です。

私はいろんなアルバイトをしていたので偏差値の高い学校に通う友達も、普通の学校に通う友達も、高校進学後に土建屋で働く友達もいます。

悲しいのは学歴がシンプルにその人の人生を規定してしまうという点です。

学歴がないと基本的に様々な機会を喪失します。その最たるものが就職です。
機会の喪失が起こる原因は、学歴がその人の能力を担保している、つまり信用を生み出しているからです。東大生=優秀とはそういうことです。逆に学歴以外に能力を担保してくれるものが少ないために、学歴の価値が肥大化しているとも言えます。

信用があれば、投資を受けることができます。
彼は東大に入るくらい優秀なんだからしっかり給料あげて会社に残ってもらわないと、部長に紹介しておこう、海外の勉強会にも参加してもらおう、プロジェクトリーダーとして仕事を任せてみよう。
なんて具合にその人の能力をより伸ばすための投資が行われます。

投資によって様々な機会に恵まれた本人は自分は価値のある人間だと思うことができます。周りは自分の存在や能力を認めてくれます。そして投資してくれた上司や関係者に感謝しつつ、もっと新しいことに挑戦したいと思うことができます。これが自信です。

そうして周りから認められ、自分に自信を持ち、新しいことに挑戦する社会人が生まれます。
これが学歴によってもたらされる信頼→投資→自信→挑戦の一連の流れです。

私が最も悲しいのは、このラインに乗れなかった人々は挑戦に行き着かないということです。私は30代、40代の転職事情についてよくわかりませんが、でも20代の就職活動の時にこの傾向が顕著に現れるのを感じました。

毎日私が話す、A君もB君もどちらも人として素敵なやつで、ジョークがわかり、真面目に物事に取り組むやつでした。どちらも教育問題に関心がありその分野で就職活動をしていました。そこで偏差値の高い大学に通うA君と話すと様々な選択肢が出てきます。省庁も考えているし、大企業も含めた民間も考えているし、もちろん教員も考えているよと。
一方、やや偏差値の低い学校に通うB君に聞くと、教員になるという選択肢一択でした。省庁や企業もありなのでは、と僕が話しても『無理でしょ笑』との答えだけです。

僕は本当に悲しくなりました。A君もB君も僕にとってなんら能力として変わりないし、二人とも優れているのに、シンプルにB君は省庁や大企業を学歴の高い人が行くところと考えていたのです。そしてそれも選抜の結果をみればあながち間違ってはいません。

B君は省庁には無理でしょと答えましたが、僕が危惧しているのは彼自身が自分の価値と学校の偏差値とをリンクさせてしまうことです。彼はこれから自分に能力があることを学歴以外のなにかで周りの人々に示すがあり、そうでなければ信頼や投資を得ることができず、様々な機会を喪失してしまいます。
そして自分自身で信用を作り出すのが難しいからこそ、学歴と年収に相関関係がでてしまうのです。
どうか彼が今後の人生の様々な場面で『無理でしょ笑』とエントリーすらしない、挑戦しない方を選ぶようなことがありませんように。
彼が省庁には『行きたくない』と答えていたらなんの問題もなかったけど。


さて、ここまで学歴社会の弊害3つを述べてきた。
一言でまとめると、学歴社会では開かれなかった可能性があるということです。

勉強ができる=仕事ができるの等式が成り立たない以上、個人の能力を数枚の紙で測定できるわけはないというのは自明のことと思う。
我々は多様な人間の能力を認め(例:記憶力、内省力、コミュ力、数学力、アイディア力など )、その人たちの能力をいかにして開花し、社会で活躍できる場を作るか、そこの仕組みづくりを進めていかなければならないと思う。

一つの評価軸で階層と分断による競争原理を使った仕組みではなく
多様な軸で多様性の共存とコラボレーションの学びがこれから主流になっていくだろう。


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