見出し画像

祖父が亡くなった時の話

「おじいちゃん死んだわ」

弟から一報を受けた時、私はアメリカの大学の図書館で勉強中だった。当時大学4年生で22歳だった私にとって、一緒に住んでいた身近な人間が亡くなった初めての体験だった。

アメリカ留学中だった私は、授業も何もかもほっぽって夢中で荷造りし、寮から2時間かかる空港まで200ドルかけてタクシーで移動し、無謀にも空港のカウンターで高額のチケットを買い、飛行機に乗り込んだ。

先日、タレントの志村けんさんがお亡くなりになったとのニュースを聞いた時、ふと祖父のことを思い出した。祖父は志村けんさんが大好きだったから。せっかく祖父が私の頭の中にやってきてくれたので、note一発目は、祖父が亡くなった時のことを綴ってみたいと思う。

家族に支えられて旅立った祖父

その約3年前、間質性肺炎という重い肺炎にかかって危篤状態に陥って以来、祖父の人生は病との戦いだった。癲癇を発症し、幻覚を見るようになり精神病棟へ移されてベッドに縛り付けられたこともあった、と後に母から聞いた。

私は、というと、高校入学と同時に家を出ていた為、病に侵されて苦しんでいた祖父の様子も、祖父と一緒に病を戦った家族の様子も身近で見ていないのだ。

後に母が、祖父が入院していた病院にお礼の挨拶に伺った際、「こんなに一生懸命患者さんのために尽くすご家族を見たのは初めてです」と担当医に言われて泣いた、と言っていた。祖母も、「おばあちゃんね、おじいちゃんいなくなっちゃって寂しいけど、何にも後悔してないんだよ」と安らかな表情で私に語ったことを今でも鮮明に覚えている。

家族も「やりきった」感に満ち溢れていた。アメリカから帰国して家に着いた時、そんな家族のある意味での清々しさを肌で感じた。

アメリカからの無謀な帰国

祖父の死の一報を受けた私は、一瞬で帰国を決めた。「祖父が死んだくらいでわざわざアメリカから帰国って」って思う人もいるかもしれない。でも、私に取っては大好きで大好きでたまらない家族の1人、感謝しても仕切れない大切な存在だった。

ルームメイトに事情を説明すると、「飛行機の中で泣いても良いように」とビニール袋にティッシュをパンパンに詰めてくれた。次の日の早朝に2時間かかる距離をタクシーで空港まで移動。200ドルもかかった。人生で1回のタクシーにこれだけのお金をつぎ込むことはもうないだろう。

そのタクシーの中でふと思い立ち、日本の留学アドバイザーに携帯電話から国際電話をかけた。「かくかくしかじか、日本に帰国します」と。彼に電話をかけたことが奇跡の選択だったと言っても良い。そこで私は、学生ビザ有効期間中にアメリカの外に出た場合、再入国するためには出国前に大学のビザ担当者のサインをもらっておかなければならなかったことを知ったのだ。

知ったところで、既に大学を出てから2時間近くが経っており、学校に戻ることはなかったのだが、日本に着いてから連絡して事情を説明し、再入国できるよう手続きを済ませてもらうことができたのだった。

無知でバカだった私は、空港に着くまで飛行機のチケットの予約をしていなかった。空港についてからカウンターで値段を知って愕然とした。カウンター価格で往復で約4000ドル、これは絶対に無理だと思い、カウンター前で泣きながら父に電話をかけた。「やっとの思いで空港まで来たけど、無理かもしれない。チケットが高すぎて買えないよ」

ちょっと考えて父から、一言「帰ってこい、金はなんとかするから」と。父の一言で決心がつき、とりあえず片道だけ購入した。当日チケットだったのでかなり高額だったが、後に親戚一同でカンパをしてくれた。

私の実家は北海道だ。飛行機はまず成田につき、そこから国内線で新千歳へ移動するはずだったが、大雪のため成田からの飛行機は軒並みキャンセル、私の乗る便も大幅に遅延していた。ありがたいことにキャンセルにはなっていなかったものの、いつ飛ぶかわからない状況。

大幅に遅れたもののキャンセルにはならずなんとか出発し、安心したのもつかの間、今度は大雪のため着陸できず、新千歳の上空で除雪と融解作業が終わるまで2時間旋回することになった。機内放送で「成田へ引き返すことも考えられます」と言われた時は泣きそうになったが、なんとか着陸。叔父さんと叔母さんが空港まで迎えに来てくれていた。

家までの車の中で食べさせてもらったいくら丼。もう間に合わないと思ってなんどもあきらめかけたが、やっと到着。そんな安心感の中で泣きながら食べたあのいくら丼の味は絶対に忘れることはない。

おちゃらけ上手、人気者だった祖父

うちは祖父・祖母・父・母・私・弟2人と7人の大家族で、とても仲が良かった。祖父は畑仕事が趣味で広い敷地に大きな家庭菜園を作り、大根・にんじん・じゃがいも・トマト・その他諸々、いろいろな野菜を作っては収穫し、私たちきょうだいも幼い頃から大根抜きやじゃがいも掘りを一緒に楽しんだ。

釣りも大好き。よく近くの海に釣りに行き、チカ(北海道に生息する、ワカサギによく似た小魚)を大量に釣ってきては、臭い臭いを家中に充満させながら黙々と頭とはらわたを取っていたのを思い出す。祖父が釣ってきたチカの唐揚げは最高に美味しかった。

お酒を飲みながらテレビを観るのが好きで、上記の通り、志村けんの番組は家族全員でかかさず茶の間に集まり大笑いをしたものだ。今でも、「日曜日はウンジャラケ〜♫」と振り付きで歌い、よく私たちを笑わせてくれたおちゃらけ祖父をたまに思い出す。

町内会ではいろいろな役員を引き受け、毎年夏の盆踊りでは櫓の上に登って太鼓を叩くのは祖父の仕事だった。

友達の家に遊びに行って遅くなった時はよく祖父が迎えに来てくれた。車の運転は人を引いたことがないのが不思議なくらい大荒れで、家の前の細道でも時速60km出ていた時は幼いながらにビクビクしていたのを覚えている。

祖父との思い出は数えきれない。10年以上経った今でも、たくさんのことを鮮明に覚えている。みんなに愛された、そしてみんなを愛した、尊敬できる世界一の祖父だった。

そんな祖父だったからか、アメリカから帰国して家につくと、家族親戚が皆集まって、祖父の遺体の横で大宴会を行っているのだ。寂しさなんて一ミリも感じさせない、ハッピーな前夜祭だった。祖父の思い出話に話を咲かせて大笑いし、時には大泣きし、酒を持ったまま頻繁に祖父の側に寄っていって、「じいちゃん聞いてるか、今あの時のあの話してたんだよ、あの時じいちゃんさ・・」と話しかけて、一緒に飲むわ飲むわ。祖父も酒が大好きだった。最後の宴会に、病気をする前の元気な姿で、笑顔で参加していた。

祖父のおかげで今の私が在る

ベターな言葉かもしれないけど、心の底からそう思う。とくに、結婚して夫の両親と住み始め、当時の母の立場になった今、とくにそう思う。まだ子供はいないが、いずれできた時には、私の子供も義父から大きな影響を受けるのだと思う。祖父はそれだけ偉大な存在だったし、義父もそうだ。

今は夫の仕事の関係で海外に住んでいるが、最近なぜか頻繁に祖父のことを思い出すようになった。私がこのnoteを始めるにあたり、ネタを提供しに来てくれているのかもしれない。亡くなって何年経ってもこうやって感謝させてくれる祖父。やっぱり大好きでたまらない。

ありがとう、おじいちゃん。




この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?