あとがきから読む小説
あとがき
あとがきを読むときの、あの何かを成し遂げた後の余韻というか、どこか興奮冷めやらぬ祭りのあとみたいな雰囲気がとても好きで、本を手にしたとき、つい、あとがきから読み始めてしまうことがあります。
あとがきには、後日譚的な作者自身による創作秘話や、本を作る上で関わったすべての人への感謝や労いの言葉以上のものが残っているような、そんな気がしてしまいます。
もしかしたら、我々はあとがきの余韻に浸りたくて小説なんていう手間のかかるものを書いているのではないか、とそんな風にすら思ってしまうほどです。
私たちの人生の中で、そんなあとがきの余韻のような瞬間はいつ訪れるのでしょうか。今がそうなのかもしれませんし、人生の終わりを迎えるときに初めて味わえるものなのかもしれません。もしかしたらこの世では余韻は味わえないのかもしれないですし、それはその時が来てみなければわからないことなのでしょう。
それでも今の私といえば、その人生の余韻を楽しみに生きているようなもので、作品を書く良いモチベーションにもなっています。
この物語を書くことになったきっかけは、もちろんあとがきの余韻を味わうため、ということもあるのですが、それ以外に二つ理由がありました。
ひとつめに、物を見たり触ったりしたときの「赤い」とか「冷たい」といった主観的な感覚であるクオリアについて調べていたときに薦められて手にした本。ラマチャンドラン博士の『脳のなかの幽霊』を読んだときに、私の中にひとつの仮説のようなものが浮かびました。
脳の機能からはいまだ説明がつかないこの感覚の問題を、あえて脳の側からではなく、感覚や感情の面から捉え直すことができないか、と考えたのです。
例えば「バラ」という言葉から、「バラの香り」であったり、「トゲの痛さ」などを連想する。しかし、トゲを手に刺したときの痛みは人それぞれ違い、バラの花を嗅いでもその香りをすべての人が好むとも限らない。
実は皆が同じバラを見ているのではなく、記憶や思い出によってそれぞれが異なる「バラ」を見ているのではないか。感覚や感情はあくまで一人称的なものと考えた方が、三人称である脳の機能との関係性を明白にできるのではないか、と考えたことが始まりでした。
そして二つ目の理由として、その仮説に翼を与える物語の発見。
私は普段、新聞の読者投稿欄が好きでよく読んでいるのですが、ある日そこで見た悩みの相談。
投稿者は子供の頃から引っ込み思案な性格で、親にねだることができなかったり、周りに気を使いすぎて自分の意見を言えずに我慢しているうちに、感情というものがよくわからなくなってしまった、という相談でした。
感情とは誰かに教えてもらえるものではありません。人は産まれた瞬間からすでに泣いているようなものです。話をするときは人の目を見て話しなさい、と言われることはあっても、そうしなければならない理由を誰も教えてはくれません。いつ目線を合わせ、いつ目線を外すのか、誰に教えられるでもなく、人は自然と周りを見てそれを学習している。
そういった何気ない行動、感覚や感情のひとつひとつから、感情とは何か、人にとっての普通とは何か、といった問いかけができるのではないか、そう思ったのです。
感情を失ってしまった彼女が、子供の頃の僅かに残る記憶を頼りに、感情を取り戻すまでの旅を描くことが、彼女を救うことになるような気がしたのです。
心的風景の描写については、セットを置かない素舞台の演劇のように、装飾的な表現を抑え、具体化しすぎないことで、読者それぞれの想像力によって風景を立ち上げることができるのではないか、と常々考えていたことを実験的に行ってみました。
その出来に関する評価は読者のみなさんに委ねますが、方法論として、ひとつの形は提示できたのではないかと思っています。
「こんな思いをするのなら、感情なんかなければ良かった」という、本作の叫びは、誰もが一度は心に抱いたことがある叫びではないかと思います。
だからといって、本当に感情を捨ててしまう人はまずいないでしょうし、捨て方がわからないという向きもあるでしょう。
しかしながら、夏の通り雨が地表の熱を奪っていくように、涙を流すことができるから、人はどんな悲しみも乗り越えていけるのだと、そんな気がするのです。
二〇一八年十二月 自宅書斎にて
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