市井シセイ
エッセイ集です。
写真・漫画・詩・小説を融合して、何か面白い表現、新しい物語が生まれないかの実験です。いつ終わるかもわからない超不定期連載。
短編小説集です。
短編小説『見えないものを見るレッスン』前・後編と、レッスン終了後の脳内座談会&自作解説。
我々はなぜこんなにも動線を意識してしまうのだろうかと時々思う。 目の前にいる相手が誰かの通り道の邪魔になっていれば「後ろ人通るよ」などと声をかけ、満員電車では降りる人のために出口のスペースを空けたり、一度外に出たりして、率先して通り道を確保する。 たぶんそうしてしまうのは、私たちが子供の頃から人に迷惑をかけないように躾けられてきたからなのかなとも思ったりするが、そのこと以上に日本は土地が狭いわりに人が多く、混雑する状況を日常的に経験するため、どうすべきかを自然と学んでいくか
それは海水浴の夢ではなかった。 海を思わせるTSUTAYAの青いレンタル袋を手にして呆然とするだけの、DVDを延滞する夢だった。 今はもうTSUTAYAへ行くことはほとんどなくなったというのに、いまだにレンタルDVDを延滞する夢を見る。 公開が終わった映画を見るのはNetflixやAmazonプライム等のサブスクばかりになっても、夢の中ではまだTSUTAYAでDVDを借り続けている。 開店前に返却BOXに返せばOKという救済制度がまだなかった頃、朝目覚めた瞬間にTSUTA
先日の宮沢章夫さんの訃報を聞いて以来、宮沢章夫さんが存在しない世界というものにまだ実感が湧かない。 自分はシティボーイズのこともラジカル・ガジベリビンバ・システムのことも、90年代の小劇場のこともよく知らず、学生時代に宮沢章夫さんのエッセイの面白さにハマってからずっと読み続けていた宮沢章夫さんの文章のファンだった。 知性の無駄遣いともいえるような、知性をフル動員させてバカバカしいことをしている人が自分は特に好きなのだけど、宮沢章夫さんのエッセイにはそれに通じるものを感じて
占いの類いをなるべく避けるようにしてこれまで生きてきた。 といっても、別に占いや風水などをまったく信じていないというわけではない。 どちらかというと、信じてしまいそうだから避けているといった方がいいのかもしれないが、意識的に避けねばならないほどに、朝のテレビ番組でも雑誌の中でも占いを見かける機会は多い。 しかし、それだけ目にすることがありながら、占いが人にどんな影響を与え、どんな効果をもたらしているかについてはあまり語られることはない。 たとえば、もし占い師から「数年後、
駐車場には停車中の家福の愛車サーブ900と、その両脇に立つ家福とみさきの姿。二人と相対するように立つ演劇祭スタッフのユンス、柚原。 高槻の代役は家福以外にはいないと思われたが、家福には別の考えがあった。 「ワーニャの台詞を言えるのは僕だけじゃない。台詞を覚えている人間はここにもう一人いる」 家福が指さしたのは、みさきだった。 「え……?私?」 みさきが驚いて家福を見上げると、家福は口元にわずかに笑みを浮かべて小さくうなずく。 「む、無理ですよ、演劇なんてや
「友達を取られた」中学の同級生からそう言われたことがあった。 面と向かって言われたわけではない。しかも、それを聞いたのは高校に入ってからで、別の同級生から「K(友達の名前)を取られたって言ってたよ」と人づてに聞いたのだった。 「取られた……?」意味がよくわからなかった。直接聞いたわけではないからニュアンスはわからないが、「取られた」というよりは「盗られた」とでも言いたげな言葉のトゲに、思い当たるふしもなくただモヤモヤするばかりだった。 確かにKは中学のとき親しくした友人で
イオンモールに初めて足を踏み入れた日のことを覚えている人はどれほどいるのだろう? それがいつのことで、どこの街であったのかを。 少なくとも私にはその記憶がない。いや、正確に言うと記憶はある。むしろイオンモールへ行った記憶がありすぎる、と言った方が正しいのかもしれない。どこのイオンモールへいつ行ったのが最初だったかなんて、もはやわかりはしない。 生まれたときからすでにイオンモールはそこにあったような気もするし、そこへ訪れたのはずいぶん大人になってからのことだったような気もして
誰かが夢や理想を語るとき、それに反対する人は決まって「いや、でも現実的にはさ」と、相手の言葉に耳を傾けることもなく、今を変えようとする行為を拒む。 でも、そこでいう「現実的」というのは、これまでそうであったという過去の話であって、今のことではない。そして、理想を語る人はこれから先の未来について語っているわけだから、両者の話が決して噛み合うわけがない。 今を生きながらも半分過去に生きる人、そして半分未来に生きる人。フランス語の時制のひとつである半過去という言葉を聞くと、なぜか
──短編小説『見えないものを見るレッスン』前・後編に分けてお届けしてきました。お読みいただいた方ありがとうございます。ご覧になっていない方は、お読みいただけますと本文をより楽しめるかと思います。 ──実際、書いてみてどうでした?狙い通りに話は展開しました? 市井:いや、うまくいきませんねぇ。おおまかなプロットはあったんですけど、出だしからもう想定と違いますからね……。 ──最初はもっと違う話を書こうとしてましたよね? 市井:えぇ、まぁ。前からこんな話を書きたいと漠然と
見えないものを見るレッスン・前編はこちら 午後の遅い時間帯、混雑していた店内にも若干の空席が見られるようになる。 店員にカップを片づけられてしまわないように、一口分だけ残していたラテ。それを飲み干そうとするも、残っていたのはミルクの泡だけで、口の中には何も入っては来なかった。 バッグから何気なく取り出した履歴書を眺めていると、紙一枚に収まってしまう自分の人生がいかに薄っぺらいものであるかを突きつけられるようだった。しかも、資格や特技、経歴欄の余白の多さが人生の空虚さ
「『恋とは、思いを抱く相手と共に過ごす時間のことではなく、会えない相手を思う時間のことである』という言葉がありますよね?」 「すみません、存じ上げないんですが、どなたの言葉なんですか?」 「っていうか、私が言ってるだけなんですけどね。愛と恋の違いもそうですけど、愛って無償の愛なんてよく言いますけど、愛自体が無償の行為って感じしますよね。でも、恋はどこか傲慢で一方通行な感じもして、心の奥底では見返りを欲しがっているような気もするんです」 原色を派手に使った看板を掲げたカ
先日、遠藤周作の未発表原稿発見のニュースを聞いた。最近割とよく聞く気がするこの未発表原稿発見の知らせ。たぶん多くの人が同じことを思っているんじゃないかと想像してしまう。 作家は本当は表に出したくなかったから未発表のままだったんじゃないのかと。しかもその後確実に、未発表原稿発見→公開の流れになるのを見ると、故人の意志とか羞恥心とかへの配慮はなされているのか気になってしまう。 当然亡くなっているから故人がどう思っていたかは知りようがないし、公開されるかどうかは遺族の許可によるの
いつだって夏の夕暮れは、花火と蚊取り線香と実らなかった恋の記憶を運んでくる。いつも脳裏に浮かぶのは、他人からすれば恋とも呼べないような些細なやりとりばかり。言えなかった言葉と癒えない傷は、今も消えずに残されたまま。 アスファルトから立ち込める陽炎がおぼろげな夏の記憶と重なりあう。 街の西側にそびえ立つ城壁のようなビル群が太陽を飲み込み始める頃、空はこの街特有の諦めの色を滲ませていく。希望を捨てた者だけが感じられる鮮やかな空のグラデーションが色を失っていく光景は、二度と
おそらく今までの人生で一度だけ、朝、大爆笑しながら目覚めたことがある。 もう何年も前のこと。普段は夢を見るといっても、覚えているのはほとんどが怖い夢だから、目が覚めた後も口角に笑いの余韻が残ったままの圧倒的な幸福感で目覚める朝はとても新鮮なものだった。 その心地よさをいつまでも反芻していたくて、しばらく布団から出られなかったのをよく覚えている。 ただ、目覚めきっていない頭でもひとつ気になることがあった。 夢の中ではあんなに笑っていたけれど、何がそんなに面白かったんだろうか
小春日和の暖かな風が季節の訪れとともに花粉までもを運んできて、道行く人のその顔から笑顔を消してしまったのは、決してマスクのせいだけではないんだろう。 人々から表情を奪ったそのマスクには、感染症ではなく花粉症であることをアピールする印が押されていたりして、それはそこまで説明しなければ理解してもらえないのか、と嘆息してしまうほどテプラだらけになったコンビニのコーヒーマシンをも思わせる。 そう、話したいのはコンビニのコーヒーについて。独自の進化を遂げようとしているマスク事情