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動線オリンピック

我々はなぜこんなにも動線を意識してしまうのだろうかと時々思う。
目の前にいる相手が誰かの通り道の邪魔になっていれば「後ろ人通るよ」などと声をかけ、満員電車では降りる人のために出口のスペースを空けたり、一度外に出たりして、率先して通り道を確保する。

たぶんそうしてしまうのは、私たちが子供の頃から人に迷惑をかけないように躾けられてきたからなのかなとも思ったりするが、そのこと以上に日本は土地が狭いわりに人が多く、混雑する状況を日常的に経験するため、どうすべきかを自然と学んでいくからなのだろう。

このお盆休みは東京へ出かけたのだが、ただでさえ人の多い東京に観光客も増える時期、いや、お盆は東京も人が減ると言われていたのではなかったっけ? と思ったが、どう見ても人は多い。
通勤通学のサラリーマンや学生の姿は見ないから電車はそれほど混雑していないのかもしれないが、店や施設など、国内や海外からの観光客が増える場所では結局どこも混みあっていた。

特に東京の駅前付近にあるコンビニはいつでも混雑しているが、店舗面積は年々狭くなってきているんじゃないかと思うほど。通路はすれ違うことすら難しく、ほぼ一方通行のような状態。欲しい商品を取り逃せばもう一周してこなければならず、それはオーバルコースを周回するカーレースのようでもある。
そしてその狭い店舗の中で会計のレジにも列ができる。当然広いスーパーのようにレジごとに列を作ることはできないので、一列に並び、そこから空いたレジへと枝分かれしていく、いわゆるフォーク並びで並ぶことになる。

このフォーク並びは、コロナ禍でのソーシャルディスタンスによって、コンビニや百均など比較的狭い店舗では一気に普及したように思う。
レジごとに列を作って並んだ方が客をさばくスピードは速いようだが、フォーク並びにはどこに並べば良いかをはっきりさせ、客の待ち時間を平等化する公平性がある。

スーパーなどで見かけるレジごとに列を作る方式は(フォーク並びがあるのなら、並列に並ぶこの方式は箸並びと呼ぶべきか)、レジの空くスピードに違いがある以上どうしても並ぶ列によって待ち時間に差が出てきてしまう。
自分の推測が外れて、あっちの列に並んでおけば良かったなんて思うことはよくあるが、そのたびにちょっと負けたような気分にもなる。

東京では店でも駅構内でもあちこちで列に並ぶことになったが、並んだ列から早く抜けられたときの喜びと、時間がかかって少しイライラしたりする、ほんの些細な勝ち負けを繰り返していると、それはさながらオリンピック競技のようだな、と思ったりもする。

スムーズに列を作る美しさや、行列を解消するまでのタイムを競うオリンピックの新種目に「動線」が導入されたら、たぶん日本は優勝候補の筆頭だろう。
東京やパリのオリンピックでは、スポーツクライミングやスケートボード、自転車のBMX等のアーバンスポーツも導入されたが、その次に来るのは社会的な行動を競うソーシャルスポーツなのかもしれない。
次回のロス大会からは近代五種の馬術に代わり、ほぼ「SASUKE」な障害物レースが採用されることにもなったから、あながちあり得ない話ではない。

近代オリンピックの創始者クーベルタン男爵の提唱したオリンピズムが、肉体と意志と精神をバランスよく高めることであるなら、近年のオリンピックは身体性の部分があまりにも特化しすぎているように思う。
アマチュアリズムというものが失われて久しいオリンピックに、男女隔てることなく誰でも参加できるという意味でも、「動線」は魅力的だ。

ただ、「動線」においても多様性の壁というのはある。
私たちが何も聞かずとも行列を作ることができるのはそこにある暗黙のルールを知っているからで、ルールを知らない誰かがその列に参加しようとすれば、途端に秩序は乱れ、列を乱すことになる。

コロナ禍の折、おそらく多くの人が経験したことだと思う。ソーシャルディスタンスを取るため、レジ前の通路を挟んだ向こう側に行列ができていることに気づかずに、レジで会計している人のすぐ後ろに並ぼうとしてしまう、悪意なき割り込みは全国各地で発生していたことだろう。

私も以前、コンビニでレジ待ちをしているとき、あとから来たおばあちゃんが列に気づかずに割り込む形になってしまったことがあった。
列の先頭に並んでいた私が「並んでますよ」と声をかければ良かったのだが、自分にそんなつもりはなくても威圧的に感じさせてしまったら嫌だなと声をかけるのを躊躇してしまった。

最終的におばあちゃんは気づいてくれたのだが、ルールをよく理解していない人への対応としてはやはり声をかけた方が良かったと思う。もちろん客同士がやり取りするよりも店員に声をかけてもらった方がトラブルになる恐れは減るが。

そして、競技化した「動線」もこの辺りは徹底していかないと金メダルへの道は遠い。日本の古き良き察する文化も大切にしなければならないが、多様な人がいる中で誰もが察してくれるわけではない。
多様性とは、わかりあえなさのことだろうかと時々思ってしまうこともあるが、人と人が違うなんていうのは当たり前のことではなかったのか。

私たちがなすべきは、思い通りに動いてくれない人たちに嘆くことではない。
目には見えない動線への意識、理解を少しでも高めてもらうためにはどうすれば良いかを考え、行動し、声をかけ合っていくしかない。
それが動線大国ニッポンのあるべき姿であり、柔道がJUDOとして世界に普及していったように、動線が世界中にDOSENとして広まっていくことにも繋がっていく。

そして、その先にあるのは動線だけに留まらない。行列を抜けた先では素早くメニューを選び、支払い方法は現金以外にキャッシュレス決済、クレジット等何があるのかを確認し、スムーズに支払いを済ませる「御会計」があり、混雑した店内から空いている席を見つけて確保する「場所取り」もある。 

私たちはこうしたソーシャル三種競技への発展も見据えながら、今日もまた動線を意識して行列に並ぶのである。


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