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必然化する偶然世界

占いの類いをなるべく避けるようにしてこれまで生きてきた。

といっても、別に占いや風水などをまったく信じていないというわけではない。
どちらかというと、信じてしまいそうだから避けているといった方がいいのかもしれないが、意識的に避けねばならないほどに、朝のテレビ番組でも雑誌の中でも占いを見かける機会は多い。
しかし、それだけ目にすることがありながら、占いが人にどんな影響を与え、どんな効果をもたらしているかについてはあまり語られることはない。

たとえば、もし占い師から「数年後、あなたの人生に転機が訪れます」と言われたらどうなるだろう。
おそらくそれ以降、どんな些細な出来事であってもそこに人生の転機を感じてしまうに違いない。
実際は転機でもなんでもないのに「お、これが転機なのかも」などと、その都度一喜一憂するようになってしまう。
そして、本当の人生の転機を迎えても「やっと来たか」と思うだけで、純粋に人生の転機を迎えたときの喜びや感動はもはや感じることができなくなってしまう。

録画しておいたスポーツの結果を先に言われたり、まだ読みかけの推理小説の犯人を先に聞かされたら、誰でも普通は怒るはず。
でも、占い師が人生のネタバレをほのめかしても誰も怒ったりはしない。それどころかお金を払ってでも自分の未来を知ろうとする人は少なくない。

不確かな未来というのは誰でも不安なものだ。
だからといって前もってすべてがわかってしまうのもなんだか味気ないし、知ってしまったことで逆に不安になってしまうこともある。

そもそも私が占いを避けるようになるのには理由があった。
あれはまだ小学生だった頃、クラスの女子が昼休みにやっていたコックリさんによって、私は67歳でこの世を去ると宣告されてしまった。

そんなことが本当に起こるわけがないとは思っても、実際に自分の未来が予告されてしまえば心穏やかではいられないし、何も知らずに無邪気に過ごしていたあの頃にはもう戻れない。

しかもよせばいいのに、そのときコックリさんに死因まで聞いてしまっていた。
そのせいか今も記憶は脳裏を離れてはくれない。


昼食を終えたばかりのにぎやかな教室で、机の上には五十音と1から9までの数字、はい、いいえが書かれた一枚のわら半紙が置かれていた。
クラスの女子二人は机の両側から向かい合わせに座り、二人の人差し指が置かれた十円玉は、「なぜ67歳でこの世を去ることになるのか?」と、私がなかばやけになってした質問の直後、わら半紙の文字の上をゆっくりと動き出した。

「自分たちの力で動かしてるんでしょ?」といった類のつっこみは早々に済ませてあったので、周りのみんなはもう黙って十円玉の行く先を眺めていた。
最初は「こ」の位置に移動して、その次が「ろ」だったから、「ころぶ?転んでしんじゃうのはヤダなあ」と、そのときはみんなと笑っていたが、「こ」「ろ」の次に「さ」「れ」「る」と来ると、もう誰も笑ってはいなかった。

そんなのはただの遊びだし、ころされるとはいっても相手が人だとは限らない。病気や災害による可能性だってあるよなと、せめてコックリさんが擬人化表現を使っていることを期待したが、いずれにしても一度宣告されてしまえばその後は常にそのことが心に引っかかり、とにかく人に恨まれることだけはしないようにしよう、と思ってしまうのが人の性というもの。

冷静に考えてみれば、コックリさんが予告した未来と私の未来には何の因果関係もないのは明白だが、それでもどこかでそれらを結びつけて考えてしまい、もしかしたら……と恐怖心を感じてしまうのはなぜなのか?

人は因果関係がほとんどないとわかっていながらそれでもやってしまうことがある。
合格祈願や厄除け等で神社へお参りに行くこともそうだし、いわゆるゲン担ぎのようなものもそう。

それは神様や霊的な力を信じるからそうするというよりは、自分の力だけではどうにもならない運命を引き寄せようとする祈りのようなもの。
個人的には、神様やスピリチュアル、パワースポットなど、超自然的なもののイメージを利用して自己暗示をかけようとする行為にも思えるが、その行為がどんな意味を持つのかは人によって違うのかもしれない。

ただ、そんなふうにしてつい神頼みのようなことをしてしまうのは、たぶん多くの人が世界は因果関係の成り立つもの、確率で測れるものだけで構成されているとは感じていないからなのだと思う。
確率だけでわかりやすく世界が成り立っているなら、合格祈願のお参りに行くよりもその時間を勉強に費やした方が合格の確率は上がると考えるだろうが、実際そうする人はほとんどいない(まったくいないとは言い切れないが)。
たぶんそうなんだ。世の中は想像以上に偶然が支配しているし、結果は必ずしも行為の正しさを証明しない。

もうだいぶ前のことだか、因果関係がないことにも関係性を見出してしまうという人間の本質のようなものを目撃したことがある。

私には兄がいるのだけれど、ある日、兄は仕事中の事故により指先を欠損するほどの大怪我をしてしまった。
私はそのとき家にいて、母親と一緒にその知らせを聞いたのだが、電話を受けた直後の母親の動揺ぶりとそのとき言った言葉は忘れることができない。

そのときは何のことを言っているのかよくわからなかったが、どうやらその数日前にテレビで手や足を失ってしまった人のドキュメンタリー番組をやっていて、その番組をたまたま兄と一緒に見ていたときのことを言っているようだった。
そこで兄と話したことを後悔して、「あんなこと言わなければ良かった……」と事故の原因とはまるで関係のないことを悔やんでいた。
手足を失ってしまった人について言及したら、それが現実になるなんてそんなことはあるはずもないのに、母親はそこに何か因果関係があるかのように結びつけてしまっていた。

そうしてしまう理由はわからない。
何の理由もなくこんなひどい仕打ちを受けねばならないことに心が耐えられないからなのか、兄ばかりにつらい思いをさせたくないからと自分もその責任を背負い込み、自分を罰することで何とか平常心を保とうとしているのか、それは本人にしかわからない。いや、本人にだってわからないのかもしれない。

結果は行為の正しさを証明するわけではない。そんなことはたぶんわかっている。わかっているはずなのに、それでも何か自分の行動が別の誰かに影響を与えたのではないかと考えてしまう。これはいったい何なのだろうか。

私たちはあらゆることに理由を求めてしまう。なぜそれが起きたのか、どうしてそうなったのか、原因を何かに求めなければ不安で仕方がない。
本当はたまたま偶然に起きたことであっても、それを単なる偶然だと見過ごせない。

占いでも宗教でも、そんな偶然でしかない点と点を線で結びつけ、ひとつの物語にしてしまう一面はあるのだと思う。
先の見えない不安を抱えたままでいるよりも、わかりやすい理由があれば真偽が定かでなくともそれに飛びついてしまったりもする。

何かを信じるというのは不安の裏返しのようなものなのかもしれない。だから不安であればあるほどより強く信じ込もうとするし、他人の言うことには頑なに耳を貸さなかったりもする。
もしかしたら不安を忘れさせてくれるものよりも、その不安の中にこそ目を向けなければならないのかもしれないが、冷静にそう考えられるほど人の心は強くない。

科学を始めとして人が生み出した社会は、世の中のあらゆることをコントロール可能なものとして扱うようになった。
私たちは物事を効率的に行うことができるようになった反面、予定外の出来事を許せなくなってしまった。
交通機関が遅れること、仕事の予定が狂うこと、予定通りの進行を妨げるものを必要以上に敵対視してしまったりもする。

経済の発展、科学技術の進歩により自然までもをコントロールし始め、街の明かりは夜から闇をなくし、携帯電話やSNSの普及によって人は常に誰かとつながるようになった。
しかし、毎年の災害、海や山の事故等、自然が人間にとって脅威であることは何も変わっていないし、SNSのつながりによってむしろ他者との比較が容易になった分、かえって孤独を深めてしまったりもする。
自然も人との出会いやつながりもコントロールできるのは、ほんのわずかなことだけなのかもしれない。

今書いているこの文章だって書き始める前に想像していたものと、実際こうして書かれたものはだいぶ違う。でもそれでいいのだと思う。
人生も自分で思うようにはなかなか進まないが、予想外のことや思いがけない出会いがあり、紆余曲折しながら進むのが人生なのだから、予測不能な未来をそこまで恐れる必要なんてないのかもしれない。

世の中は偶然の可能性に溢れている。であれば、今ある偶然にもっと身を委ねることがあってもいいのではないか。
といってもそんな大層なことではなく、あまり話したことがない人に思い切って話しかけてみるとか、何となく気になっていた店に入ってみるとか、そんなちょっとした好奇心のおもむく先に偶然の可能性は開かれているようにも思う。

今はもう子供の頃のように輝かしい未来などは想像できないが、それはたぶん未来が輝いていないのではなくて、今現在が輝きを失ったから。
だから再び未来に輝きを取り戻すなら、未来に生きるのではなく今を精一杯生きるしかないのかもしれない。

コックリさんが予言した私の未来、私が67 歳を迎えたとき、私自身も世の中もどうなっているかはわからない。
決められた未来などないのだと信じたいが、私が67歳を目前にしたとき、私は確実に厄払いのお参りには行くんだろうな、とそんな未来だけを想像している。


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