建築家はなぜスタンドカラーのシャツを着るのか?(追悼・宮沢章夫さん)
先日の宮沢章夫さんの訃報を聞いて以来、宮沢章夫さんが存在しない世界というものにまだ実感が湧かない。
自分はシティボーイズのこともラジカル・ガジベリビンバ・システムのことも、90年代の小劇場のこともよく知らず、学生時代に宮沢章夫さんのエッセイの面白さにハマってからずっと読み続けていた宮沢章夫さんの文章のファンだった。
知性の無駄遣いともいえるような、知性をフル動員させてバカバカしいことをしている人が自分は特に好きなのだけど、宮沢章夫さんのエッセイにはそれに通じるものを感じていた。
みんながなんとなく思っているだけで見過ごしてしまうことをバカバカしいまでに考察し突き詰める、その発想力や紙の上で繰り広げられるコントのような展開には何度も笑わせてもらった。
「どこで売っているのかわからないものは、たいてい薬局で売っている」というキャッチーな書き出しからオブラートについて語るエッセイのおかげでオブラートは日本にしかないことを知りもした。
また、渡辺という名前の人が慣例や暗黙の了解によって「ナベさん」と呼ばれてしまう理由も学んだ。それは「ナベさん」であって、決して「ワタさん」とか「ワーさん」ではダメだということも。
ことあるごとに宮沢章夫さんがエッセイで書かれたことを思い出してしまうが、宮沢章夫さんが亡くなる少し前にもスタンドカラーの服を買おうと思ってこんなツイートをしていた。
もう20年以上前のことだが(20年も経っていたのか!)、宮沢章夫さんが朝日新聞で連載していたエッセイに「建築家はなぜスタンドカラーのシャツを着るのか」と書いたところ、多くの人がそう思っていたと反響があったという(『青空の方法』収録「建築家」「建築家2」より)。
当時は建築家のスタンドカラー比率が圧倒的に高かったようだが、今では多くの人が日常的にスタンドカラーのシャツを着るようになっている。今はもう建築家のイメージも宗教家のイメージもだいぶ薄まってきているように感じたのでこうツイートしたのだが、スタンドカラーにまつわるイメージが全くなくなったわけではない。
むしろこうなってしまうと、スタンドカラーのシャツを見かけるだけで今は宮沢章夫さんのことを思い出さずにはいられなくなってしまった。
それからスタンドカラーを見るとどうしても思い出してしまうのは、その昔ユニフォームの襟を立てながらピッチを疾走していたマンチェスター・ユナイテッドでも活躍したサッカー選手、エリック・カントナのこと。
そうなのだ。スタンドカラーのシャツをいまだに買うことができないでいるのは、まだ着たこともないスタンドカラーのシャツにすでに思い出やさまざまな感情がこびりついてしまっているから。
それが黒いスタンドカラーであれば、服部栄養専門学校の服部先生のことを思い出しもする。
こうなると、スタンドカラーのシャツを着るというのは、もはやその人にとっての人生のアルバムをめくるような行為にも思えてくる。
そんなわけで、スタンドカラーのシャツを冷静に着られるようになるにはまだしばらく時間がかかりそうではある。というよりも時間が経てばそれだけスタンドカラーに対する思い出がさらに増えてしまうので、結局自分はいつまでもスタンドカラーのシャツを着ることができないような気がしている。
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