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生きづらくはない地方都市で、イオンモールは永遠を謳う

イオンモールに初めて足を踏み入れた日のことを覚えている人はどれほどいるのだろう?
それがいつのことで、どこの街であったのかを。

少なくとも私にはその記憶がない。いや、正確に言うと記憶はある。むしろイオンモールへ行った記憶がありすぎる、と言った方が正しいのかもしれない。どこのイオンモールへいつ行ったのが最初だったかなんて、もはやわかりはしない。
生まれたときからすでにイオンモールはそこにあったような気もするし、そこへ訪れたのはずいぶん大人になってからのことだったような気もしてしまう。

要するに、イオンモールに関する記憶はどれも曖昧なのだった。

初めて訪れた街でも、そこにイオンモールがあると旅の気分は一瞬で消えてしまう。何度も来たことがあるかのような既視感を覚え、まるで地元であるかのような錯覚を引き起こす。
もしかしたら、イオンモールについての記憶とは、まだ産まれる前の胎内や、それより前の私たちの祖先がすでに持っていた、DNAに深く刻み込まれた記憶なのではないかと思ってしまうほど。

つい最近のこと、私が住む地方都市の郊外にイオンモールの建設が決まった。そのこともまた、どこかで聞いたことがあるような既視感を感じさせる。

イオンモール建設の計画が発表されると地元の商店街は猛反対する。そしていったん白紙に戻った計画は、数年経って結局建設が決定されることになる。これまで様々な地で何度も繰り返されてきた経緯。

商店街の衰退、街の多様性の喪失、そんなことを考えれば、イオンモールという場だけで街の消費のほとんどを担うことの異様性を感じずにはいられない。
けれども、何も手を打たなければ街は衰退を続けるばかり。イオンモールの建設によって、雇用の場が増え、地元民以外も街を訪れる機会が増えるのも確か。

その昔、地元の友人に「東京へ行くとしたらどこへ行きたい?」と尋ねたとき、返ってきた答えは「東急ハンズ」だった。
え?なんで?と思ったし、もっと他にないの?とも思ったけど、実際それほど田舎の人間は都会のような何でも手に入る大型店での買い物に飢え、憧れていたのだった。

しかし、今はそれとは求めるものが少し変わってきてはいる。商品の豊富さという意味では、今はネット通販でほとんど代用が利く。
今イオンモールに求められるのは、買い物によるモノの消費よりも時間の消費であり、体験やレジャーの場としての魅力の方が大きいのではないかと思う。

友人や家族との食事、お茶やコーヒーを飲みながらの談笑、何を買うわけでもなく目で楽しむウィンドウショッピング、そして映画を観て過ごす幸福な時間のためにイオンモールがあるといってもいい。

確かに、イオンモールへ来れば開放的な気分にもなる。それは通路の広さや天井高く吹き抜ける開放感によるものだったり、出店している店舗の多さによるところでもある。

何もない田舎町には広い土地だけはあっても、快適に過ごせる場所というのは思うほど多くはない。
今や町の公園では、ボール遊びが禁止され、大声での談笑禁止、自転車の乗り入れ禁止となっている所も珍しくはない。
公園に面した道路で親子がキャッチボールをしている姿を見かけることもあるが、そのたびに公園という憩いの場が何を許された場所なのかわからなくなってしまう。

そんな何もないどこか不自由な街から解放された子供たちは、イオンモールの広い通路を見れば思わず走り出してしまうだろう。そして見上げる天井の高さ、目移りする店の多さに視線が定まらずに転んでしまうかもしれない。
しかしそこはイオンモール。床は一面カーペットだから傷一つ負うことはない。
もし、これが硬いタイル張りの床などであったら、子供は傷を負い、泣き出してしまうだろう。そしてそれを見た母親はこう言うかもしれない。
「男の子なんだから泣かないの!」と。
男は常に強くあれという、男らしさの呪縛にこうして囚われていくのだが、イオンモールのカーペットであればそんなことは起こらない。ジェンダー平等の社会が訪れる。いいことばかりではないか。

だが、街がなくしてしまったものもある。

今でもよく思い出すのは、子供の頃、休日に家族とデパートへ出かけたときのこと。
衣料品や日用品など一通りの買い物を終えた後、よく最上階にあるレストランで食事をした。そこはいつも大勢の人で混み合っていて、注文してから料理が来るまでずいぶん待たされもしたが、そこでの食事は特別なものだった。
まだ小さい頃のことだったから、注文したお子様ランチにはいつも日本の旗が立っていた。

今思うと、あれが最後の砦だったのかもしれない。
富士山に見立てたケチャップライスの上で高く掲げられた日の丸の旗。それは街に襲いかかるグローバリズムの波からこの土地を守らんとする最後の抵抗の証だったのではないだろうか。

それから間もなくして、地方都市の街並みはどこもかしこも判で押したように複製コピーされていくことになる。どこの街へいっても同じチェーン店、同じ色の看板ばかりを目にするようになる。
グローバリズムという名の超大型のローラーは、街から尖りや起伏を奪い取り、のっぺりとした特徴のない街へと地ならししてしまう。

奮闘むなしくも、デパートはいつしかなくなってしまった。お子様ランチのあの旗を見ることももうない。デパートの屋上でお金を入れたら動き出すあの動物の乗り物にももう乗ることはできない。

動物の背中に乗ることなどやめて自分の足で歩きなさい。そう言われているような気もした。
でも、自分の足で歩くといったって、一体どこへ行けばいい?

そう、結局みんなイオンモールへ行くしかないのだ。

誰かが言った。あらゆるものが揃っているイオンモールにも足りないものがある、それは宗教とコミュニティだと。
若者たちは地域のつながりの煩わしさから逃れるようにイオンモールにたむろし、時間を持て余したお年寄りは残された時間を謳歌するかのようにイオンモールを闊歩する。
そんな人たちを繋ぐコミュニティ。諸外国であれば宗教がその代わりでもあり、教会やモスク、そしてこの国ではかつてお寺が果たしていた役割をイオンモールが担ったら、それはもう社会そのものである。

生まれたときからこの世を去るまでのほとんどの時間をイオンモールで過ごした若者は、最後の瞬間をイオンモールの思い出で彩られた走馬灯が駆け巡る。お年寄りは暮らし慣れたイオンモールで最後の時を迎えたい、そう家族に告げるだろう。

AEONイオン」という言葉の由来は、「永遠」を意味するラテン語の「ÆONアイオーン」から来ているという。もはやイオンモールなしでは暮らしが成り立たなくなった地方都市で、終わることのない宴は未来永劫続いていくのだろうか。

しかし、この国の特に地方での人口減少はもはや避けようがない。新たな住民の流入もなく、若者の都会への流出に歯止めがかからなければ、採算が取れない街ではイオンの撤退も余儀なくされてしまう。

実際、消費の伸びに限界がある日本での出店は頭打ちになり、中国、ASEAN諸国の出店拡大を目指す動きにもなってきている。

この先、アジア諸国は国同士の問題を抱えながらも、民間の結びつきは今以上に強く活発なものになっていくのかもしれない。

そして、いつか旅行や仕事などでどこか外国の地へ降り立ったとき、初めて訪れた国なのにどこか懐かしい既視感を感じることがあったら、そこにはきっとイオンモールがあるだろう。



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