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春が半分泣いている。


「彼女、美人だけどニコリともしないでしょ。だから”冷子さん”」

 西藤さんは紙の左上をホチキスで留めながら言った。何も応えられずに曖昧な笑みを浮かべると、「悪い人ではないんだけどね」と控えめに付け加えてから別の話題に移っていく。

 私はほっとしたのを気付かれないように相槌を打ちながら、別のデスクの島で黙々と作業をするその人を横目に見た。

 清潔感のある白い壁紙に艶を消した灰色のオフィスデスクがひしめく一室。密やかな話し声と複合機が紙を吐き出す音が満ちる中、その人だけが別空間にいるかのように浮き上がっていた。

 いくら新人とはいえ、同僚の皮肉がわからないほど鈍感ではいられない。まるで透明な薄い膜を張ったようなその人の半径1メートル外側を、何人かの人たちが避けて通っていく。



 麗子さん、もとい”冷子さん”が美人であることは誰の目にも確かだった。陶器のように白い肌に艷やかな長い黒髪、細い銀フレームの眼鏡が彼女の容姿を完璧に引き立てている。地味なOA機器で構成された職場も冷子さんの背景になると急に華やかに見えて、上司も同僚も彼女を「美人」「綺麗な人」と説明した。

 だが大抵はその後ろに「美人だけど」とか「綺麗なのに」と否定の言葉が繋がれる。

 たとえばそれはお菓子を勧められたときに「いりません」と言って顔も上げないことだったり、お喋りな同僚に「手を動かしてください」とぴしゃりと言い放つことだったり、それらが彼女を「冷子さん」たらしめている理由だということは入社してすぐにわかった。

 ただ仕事は誰よりも速いし小さなミスひとつせず、その一糸乱れぬ完璧ぶりが余計に周囲の人を遠巻きにさせているようだった。

 私も例外ではなく、入社から二週間が経った今でも冷子さんを盗み見ることしかできない。とてもじゃないが面と向かって冗談を言うような勇気はなく、できれば穏便な距離を保っていたかった。

 西藤さんの作業に合わせて紙を必要枚数取って束ね、角を合わせて差し出す。午後3時過ぎの穏やなかひと時の終わりは近い。この作業が完了すれば、私はあの薄膜を静かに破って「終わりました」と冷子さんに報告しなければいけなかった。

 新人採用の理由は職員の退職に伴う欠員募集であり、数週間後に会社を去る冷子さんの仕事を引き継ぐのが私の仕事で、彼女が教育担当になるのは当然のことだった。


 小さく溜め息を吐くと彼女の視線が私に向いた気がして慌てるが、銀フレームの眼鏡に光が当たっただけのようだった。硬質な彼女の美しさが、夕方を前にした淡い西陽の中で凛と立ち上る。

 その景色はなぜか東京にいたときのような感慨を覚えさせ、最後の紙の束をうまく揃えることができなかった。



***



「メモくらい取ったらどうですか」

「あっ、ごめんなさい、」

 慌ててメモ帳を引っ張り出し書こうとするが、右手の薬指が攣ったようにぎこちなくて無駄にカチカチとペン先を出し入れしてしまう。ようやく文字が走り出しても、言われたことをそのまま記録するような書き方が冷子さんの気に障らないかと思って余計に線が荒くなる。

 彼女の教え方はあまりにも上手なうえに丁寧で、それがかえって伸し掛かるように気持ちを重くする。手は動いていても、頭はほとんど静止画のように固まっていた。

 メモを取り終わって顔を上げると、事務所の中がにわかに騒がしかった。ぽつぽつと席を立った同僚たちがコートを翻して「お疲れ様でーす」とフロアを出ていく。デスクモニターの右端に表示された18:09を見て、固まっていた頭の中が今度は忙しなく温度を下げた。

「今日はもう終わりにしましょう」

 冷子さんが溜め息混じりに言った。語尾を言い終える頃にはすでに片付けをはじめていて、言葉を差し挟む余裕はなかった。それでもなんと謝れば穏便に明日を迎えられただろうと考えるが、そもそも一度だってにこやかに談笑などできていなかった。

 「お先に失礼します」と席を立った冷子さんの背中を見送ってからのろのろと帰り支度をしていると、大きめのトートバッグを抱えた西藤さんが小走りに駆け寄ってくる。

「大丈夫そう?」

「えっと、なんとか」

 曖昧に返事をすると西藤さんはわかりやすく眉間に皺を寄せ、フロアを後にする冷子さんの後ろ姿に目をやる。

「あの人、いつもああだから、気にしない方が良いよ。どうせあと少しの辛抱なんだし」

 だから大丈夫よ、と付け足した声は私にだけ優しかった。

 そうでしょうか、と弱気な返事を飲み込んで、「そう、ですね」と語尾を変えて笑うと、西藤さんは何度かうなずいてからフロアを出ていった。私も簡単に身支度を整えてそそくさと職場をあとにする。



 桜の気配を感じる日中も、午後六時を回れば寒さがひたひたと充満してくる。特に田舎の街は暗闇が濃く、冬にまとわりつかれているような心地がしてコートの前ボタンを締めた。

 東京から地元へ帰ってきて半年が経つ。生まれてから高校卒業までを過ごした故郷は安心と退屈が交互に押し寄せ、三ヶ月経った頃にはすっかり馴染んでしまった。

「東京と違って、買い物といえば駅前のショッピングモールくらいだし、24時間営業のお店も少ない。だけど悪いところじゃないのよね」

 そう言ったのは母だったような、中学時代の友人だったような、それとも西藤さんだっただろうか。特別寄り道する用事も、立ち寄りたくなる場所もない田舎街だが、悪いところでないことはたびたび実感していた。空気も、建物も、人も、どこもかしこも知った匂いがして、馴染むたびに煮詰まった心細さが透明になっていく。

 スマホを開くと母からメッセージが入っていた。可愛らしいうさぎのスタンプのあとに、今夜は鍋にすると書かれていた。私が小学生の頃から現役で働き続けている大きすぎる土鍋に、いっぱいの白菜と豚肉、その他いくつかの食材をぐらぐらと煮る光景が目に浮かぶ。

 想像するだけで匂いまでしてくるようなのに、東京では一度も作らなかった。たぶん、ずっと無理をしていた。

 憧れと見栄で、嫌なことや辛いことを覆い隠した。胸によぎった違和感を何度も無視して、笑えばすべて丸く収まると信じていた。壊れる直前にようやく怖くなって逃げ出せた冬のことを、未だに時々に夢に見る。かすかな胃痛で目を覚ますと、実家の黄ばんだ天井に朝陽が差し込んでいた。

 大丈夫、今度こそうまくやれる。

 音にならないように唇だけで唱えながら、冷子さんみたいに強かったら少しは違っていたかなと頭の隅で想像していた。



***



「おはようございます」

 控えめに出した声は開け放たれた窓から吹き込む風にさらわれ、そのまま外へ出ていった。

 約一ヶ月間通い続けている場所でも、時間が違えば人も空気感もまるで異世界のようで、私は3センチヒールのかかとが音を立てないようにつま先で歩いた。

 いつもより一時間早い世界が私には少し眩し過ぎて、思わず目を細めた。太陽がまだ斜め45度にいて、集団登校する小学生たちの黄色い帽子の列をいくつも見かけた。足元だけ暖房を入れた車の中で赤信号を眺めていると、2回連続してあくびが出る。人は緊張や体調不良でもあくびが出やすくなるという話を思い出し、今のはどっちだろうと考える。

 冷子さんが退職する日まで一週間を切ろうしていた。残された時間の少なさに戦々恐々としながら、せめて昨日のおさらいをしようと今朝は早めに家を出たのだった。

 だが無機質なデスクの島にはすでに冷たい薄膜が張っており、その真ん中に冷子さんが座っていた。いつもこんな朝早くから出勤していたのだろうか。自然と肩が重くなって足取りまでのろくなる。

「いやぁ、この会社に麗子さんはもったいないと思ってたよ」

 沈黙を埋めるように間延びした声が横たわった。

 別の島にいた課長が冷子さんに話しかけていた。反射的に半歩身を引いて給湯室へ逃げ込んだが、ふたりの会話は容赦なく耳を追いかけてくる。

 「そんなことありません」とぴしゃりと言い切る冷子さんだが、それでも課長は怯むことなく話題を広げていく。「次はどうするの」「美人はどこへいっても大丈夫だよ」「引き継ぎだけはしっかり頼むね」。

 ぼた雪のように重力を持ち過ぎた言葉たちが、風通しの良いはずの室内にじっとりとのしかかった。手持ち無沙汰ついでに自分で淹れたコーヒーの匂いに、なぜか吐きそうになった。

 給湯室から顔だけ出すと、課長の声ばかり鮮明になった。冷子さんは相変わらず針が刺さったように背筋を伸ばして座っていて、均整の取れた横顔がゆるやかなカーブを描いている。だが色白すぎて少し色の悪い頬はわななき、わずかに俯いて見えた。春めいた風が止み、空気はどこか淀んでいた。



 あの冷子さんが、まさかね。


 そう思いながらも、唇の裏を小さく噛む。

「あの、」

 予想していたよりも声が震えたが、課長が何か言う前に無理やり吐き出す。

「あの、わからないところがあって」

 半ば消え入りそうな声だったことは自覚していたけど、冷子さんの白い顔と目があって、私はまたつま先だけで歩いた。課長は何事もなかったようにデスクモニターに視線を移していた。

 口を開けずに胸だけで大きく息をつく。力が抜けた拍子に胃がへこむように痛んで、少し猫背になりながら席についた。

「それで、わからないところって?」

 ほっとしたのも束の間、冷子さんの声が飛んできた。私は慌てて引き出しから資料を引っ張り出すが、ぐずついた朝の頭では何を出てこない。

 鋭い沈黙に耐えかねてその場しのぎに「麗子さんってここが地元なんでしたっけ?」と話を振ってみる。「それ、今関係ありますか?」と言わんばかりの怪訝そうな顔にまた胃が痛くなりかけたとき、意外にも返事が戻ってきた。

「えぇ、今も実家暮らしよ」

「あ、そうなんですね」

「あなたも?」

「そうです。少し前までは、東京にいたんですけど」

 またどうでもいいことを、と思ったが、目の前の資料に目を通してもろくな質問が出てこなくて反射だけで会話を続ける。

「大学に通うために上京して、一度はそっちで就職もしたんですけど、出戻ってきました」

 引き攣れた口の端がへらへらと笑う。私の舌はこんなときばかり饒舌で、そのくせ自分の言葉が喉につかえて白い引っかき傷を残した。

 出戻ってきた、なんて言うつもりはなかったのに。地元に帰ってすぐの頃に誰かが言った台詞をそのまま真似しているようだった。

 しかし冷子さんは気に留める様子もなく「そうなの。東京か、いいわね」と目を伏せた。繊細なまつげが頬に影を落とし、肌の白さが余計に浮き彫りになる。あぁ、綺麗だな、と思って、無骨なアルミデスクの背景が瞬間的に都会らしく綺羅びやかに変わる。

 その景色があまりにもしっくりきて、かつて抱いていた憧憬らしいものが疼き出すとともに、自分を焼き切った思い出まで引きずり出されてくる。

 課長のかさついた唇から漏れた「この会社にはもったいないよ」。その言葉を額面通りに受け取れるほど鈍感にはなれなかった。「もったいないよ」が頭の中で「必要ないよ」に変わり、やがて「いらないよ」と形を変えた。すべてが数珠つなぎになったようにフラッシュバックが止まらない。

 その人はいつも糊の効いたワイシャツに濃紺のスーツを着て、残業する私の背後に立っていた。吊り上がった口角が吐く息遣いがもったいぶるように近づいてきて、私は身を固くする。「お前、この会社にいらないよ」。



 冷子さんにも、望んでも叶わない願いがあるんだろうか。何もかもから逃げたくなるような夜があるんだろうか。


 翳りはじめた朝の香りが肺に溜まる。お昼過ぎから雨が降り出すでしょうと今朝のニュースが言っていたのを思い出す。私には薄膜に包まれた彼女が段々とわからなくなってきていた。

「無駄話が過ぎました。今日は早めに終わらせてくださいね。また残業になりますよ」

 反射的に言った「すみません、」は冷子さんに届くことなく、続々と出勤してくる同僚たちの声にかき消された。

 私は胃の痛みを逃がすように身をよじり、静かに息を留める。



***



 胃の不調はやがて身体全体のダルさに変わり、いつの間にか風邪を引いていた。

 課長や西藤さんの勧めもあって酷くなる前に二日間休みをもらい、申し訳なさと情けなさの間で嫌な汗をかきながら眠った。数日ぶりに身支度を整える朝はカーテン越しの日差しがまぶしく、立ちくらみでうまくストッキングが履けなかった。


 初出社の日のようにおそるおそる出勤すると、周囲がかけてくれる優しい声にほっと胸を撫で下ろした。同僚や上司に何度も小さく頭を下げながらデスクにつくと、隣の席ではすでに冷子さんが作業をはじめていた。

 固く唇を引き結んだ横顔は苛立っているようにも呆れているようにも見えて、「ご迷惑おかけしました」と挨拶をする声が震えて上ずった。



 それからはいつにもまして追い立てられるように働き、時間は朝焼けに溶ける星のように容赦なく消えていく。せめて体調だけは崩すことのないように寝て、食べて、太陽の光を浴びていると母が「調子良さそうね」と機嫌よく笑った。私は何も応えられずに「行ってきます」と会社へ向かった。

「あの、すみません、付き合ってもらって」

「そう思うのなら手を動かしてください」

 冷子さんの声は締め切られた窓硝子にあたって跳ね返り、二度私を打った。再度「すみません」と口にするのすら憚られて押し黙る。

 使っていたデスク周りの片付けを終えた冷子さんは、おそらくもうやる必要もないだろう書き物をしながら私の残業が終わるのを待っていた。というよりも、新人をひとりで残せないという事情が大きいことはここ一ヶ月の様子でわかっているだけに、何倍も空気が重い。

 誰かが辞めるときは本来なら送別会を開くようだったが、冷子さんの「必要ありません」という一言により、朝礼時の短い挨拶だけでお開きとなった。

 帰り際に何人かの同僚たちが連盟で短く声をかけてきたが、親密そうに別れを惜しむ人はいなかった。含み笑いで最後を悲しむ同僚たちに対しても、半休でお昼に帰っていった西藤さんに対しても、冷子さんの表情は平等に頑なだった。

 締め切った部屋に空気清浄機の低い振動音が響く。春が近づいて伸びてきた日照時間も、午後七時を目の前にすればとっくに夜に取って代わっている。一秒ごとに焦りだけが降り積もる。

「終わりましたか」

「あ、いえ、もうちょっとなんですけど、」

 俯いてはいけない、と思ったときにはすでに皺の寄ったスカートに視線が落ちていた。唇の薄皮がめくれて、噛み締めると攣れたように痛む。

「そんなことで大丈夫なんですか。私、もう来週にはいないんですよ」

 うまく返事ができない。自分の中にどくどくと脈を打つ感情で何も考えられなくなりそうだった。せめて困ったように微笑もうとしたけど、思考の回路が口角まで届かずにふつりと途切れ、代わりに両目尻に力が入る。

 ここで上手くやっていきたかった。そのためなら我慢も辛くないと思っていた。だけどもしかしたらそれは徒労で、まったくの無駄だったのかもしれない。

 自分の不甲斐なさを目にするたびに、見えない糸が切れていく気がした。一本、また一本と千切れた先で真っ黒な空間がぽっかりと口を開けている。

 だけど少しくらい、せめて最後くらい優しくしてくれたら、それだけでどれだけ救われることだろう。


「どうして、」

 薄く半開きになった口の端から言葉が零れ落ちる。どこからか風が通り過ぎる音がして、溢れ出した声を攫っていく。私ははじめて冷子さんを真っ直ぐ見た気がした。

「どうして、あなたが泣くんですか」

 歪みかけた視界の真ん中で、大きな瞳が揺れている。こぼれた雫が頬に筋を作り、あとからあとから追いかけるように流れていく。椅子ごと身体の向きを変えた拍子に書類がひらりと床に落ちた。

「どうして、でしょう」

 涙を拭うために眼鏡を取った冷子さんは相変わらず綺麗で、濡れた肌が蛍光灯の明かりにきらめく。顎に伝った一滴をすくう指先は控えめなピンクベージュに装い、触れたら柔らかそうな春の色をしていた。

「急に実感が湧いてきちゃって、ついね。気にしないで」

「気にしますよ、いくら、新人でも」

「新人は関係あるんですか」と言う冷子さんの口元はゆるやかにカーブして、少しも笑えない私は逆になったみたいだな、と頭の隅で思う。

 眼鏡をかけ直したら魔法が解けてしまうかと思ったが、一度崩れると氷のような固さはカーペットに転がっていた。

「好きで入った会社だったのよ。でも、もう終わりなのね」

 湿気を含んで下がったまつげがほんの少し幼く見えて、年齢不詳だった美人がたったそれほど歳の違わない女性に形を変える。

 終わりじゃないですよ、と言いたかったけど、何の責任も取れない新入社員は曖昧に頷かないようじっと耐える。出戻りの私なんかに言えることがあるだろうか。じゃあ、私に「出戻り」と言った友人はそんなに立派な人だったんだろうか。

 道筋のわからない未来がとっぷりと暮れていく。私だってまだ再スタートすら切れていなくて、今も途方も無い虚無感の中にいた。

「これからどうするんですか」

「どうしたらいいかしらね」

「あの、東京へ行くのはどうですか」

 冷子さんの椅子がキュ、と小さく鳴く。眼鏡の奥の瞳が丸くなって、何度か瞬きをする。

「自分が失敗したのに、それを人に勧めるの?」

「あ、それもそうですよね」

「うそ、冗談よ。ありがとう」

 乱視のようにブレていた像がひとつに重なって、麗子さんというひとが立体的になる。

 彼女の態度が周囲を遠ざけたことに代わりはない。だけどそれだけがすべてでもない。彼女は完璧さで全身を守り、張り詰めたように美しく、皮膚の柔らかい部分を強さで覆い隠そうとする、普通の女性だったのかもしれない。

 私も、この会社の誰もが知らずにいた、湯川麗子というひとりの女性が夜が冷たいオフィスにじんわりと発光していた。その明かりが薄い膜の正体のような気がした。

 スカートに寄った皺を両手で伸ばす。ピンと張ったグレーの布が綺麗に皮膚に沿う感触がした。

「あの、麗子さんなら、きっとうまくやっていけると思うんです。私は駄目だったけど、だから、ここで頑張ってみます」

 PC画面がぷつんと黒に変わり、スリープモードに移行したらしかった。空気清浄機の唸り声は相変わらず低く、忙しない沈黙を作っている。

 喉から這い出した言葉に自分が一番驚く。私、まだ、頑張れるんだ。

 麗子さんはありがとう、と言って、小さい女の子がするみたいに両手で口元を抑えて笑った。頬に落ちたおくれ毛がふわりと揺れる。

「変ね。私達、もう明日からは他人なのに」

「今だって十分他人じゃないですか」

「それもそうね」

 私も麗子さんの真似をして両手で口元を覆う。ふ、と声が漏れたのが同時だった気がして、抑えられずにふたりで笑った。

 もう二度と会わない相手だから、こんなにも素直になれるのだろうか。それとも麗子さんだから、正直になれたのだろうか。答えはわからないまま夜の気配に溶けていく。

 それでも空へ投げたボールは確かに誰かの胸に届いていて、受け止められている感触があって、それが少しだけ呼吸を楽にする。

 何もなくなった麗子さんのデスクとぐちゃぐちゃに資料の束が重なった私のデスク。隣り合ったふたつがひそひそ話をするように身を寄せ合っている。

 もう少し早く話せていれば、と思うのをやめにして、私はキーボードのエンターキーをたんっと押し込んだ。



***



 吹き抜ける風が一層春めき、来週にも桜が開花するらしいと西藤さんが話していた。他の同僚たちがお花見行きたいね、と小声で盛り上がっている中、私は片耳だけで相槌を打つ。

 麗子さんが去った月曜日、彼女のことを話題にする人はいなかった。別れを惜しむ声もなければ、あの真っ直ぐに背筋の伸びた背中に皮肉を吐く人もいなくて、まるで最初から存在しないみたいだった。

 いつも通り密やかな話し声と複合機が紙を吐き出す音が満ちる室内。私はデスクの一番奥に貼られたメモに目をやる。

『あなたなら大丈夫です』

 冷たい字が綴られた薄いピンク色の付箋は、資料の中やファイルの表面にもいくつも貼られていた。ケアレスミスに注意とか、重要書類のため二重チェックとか、私がしそうな失敗にひとつひとつ言葉が添えられていた。

 彼女の引き継ぎは完璧で、いなくなったあとでもそばにいるみたいだった。

 麗子さんが去った月曜日、彼女のことを話題にする人はいなかったけど、それがいつか彼女の救いになればいいなと思いながら、今日もPCを前に四苦八苦する。

 お金が溜まったらまたひとり暮らしをはじめたい。可愛らしいピンク色のネイルもしたい。お花見だってしたい。

 夜はまだ寒さに震える日もあるけれど、ぬくもりに踊る春はもうすぐそこまで来ている。




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