【連載小説】満開の春が来る前に p.6
新聞配達のバイト君が奮闘するミステリー小説です。
「満開の春が来る前に」p.1は【こちらから】
他無料noteで連載していた小説は【こちらから】
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「笑ってしまってごめんなさい。でも、実はまだ秘密なの」
「まだ、っていうのは……」
「春が本番になる前、だいたいうちの桜が全部散りきる頃かな、そのくらいになったらやめようと思ってるんです、こうやって待つの。
前は雨の日だけだったんですけど、いつの間にか毎日になってしまって。
でも私がいつまでもこんなことしてたら、また怒られそう。あまり体が丈夫じゃないから」
彼女はカラリとした口調で俺にそう言った。湿り気のないその語り口は、寂しさなど微塵も感じさせなかった。それが逆に痛々しく見える。
「だからこうして受け取れるのもあと少しですが、これからもよろしくお願いします」
音がしそうなほど丁寧におじぎをする。俺もそれ以上は何も聞けず、短く返事だけをして彼女と別れた。
雲っているせいで太陽が顔を出せず、余計に景色が寒々しく感じられる。ひんやりとした空気が頬に痛かった。
心なしか沈んだ街を、いつも通りに回っていく。太一さんも毎日、こんな景色を見ていたのだろう。
俺は余計なことをしていたのかもしれない。結局何も分からずじまい。ただ小山内さんや澤平、そして彼女に迷惑をかけただけだった。
わざわざこの地区の配布に俺を推したことについては、春を終えてから聞くことにしよう。その頃には太一さんも、新しい生活にひと段落ついているだろう。
俺は無理矢理に自分を納得させ、黙々と残りの仕事をこなした。そして時折立ち寄る自販機で缶コーヒーを買って一息つく。熱いコーヒーの苦味が口の中に広がる。
そうして休んでいると、俺が来たのとは反対側から見知った顔がこちらへ向かってくる。
「岩瀬さん、やっぱり今日もここにいたんですね!」
後輩の澤平が途中でバイクを止め、俺の元へ駆け寄って来た。何度か抱えたヘルメットを落としそうになっているのが少しだけおかしかった。
簡単な挨拶を交わして、澤平もまた飲み物を買おうと財布を取り出していた。
「そういえば、結城さんに会いました?」
「え? 太一さんに?」
「やっぱり、会わなかったんですね」
澤平が気まずそうに俺から目を離した。彼がいつも飲んでいる微糖のコーヒーのボタンを押すと、ガタンと音を立てて缶が落ちてくる。それを取り出しながら、言葉を続ける。
「ついさっきなんですけど、結城さんとばったり会ったんですよ。少しだけ立ち話して別れました」
はじめに聞いたときは驚いたが、太一さんが一人暮らしをしているアパートがそちらの方面にあるのだから会ってもおかしくはない。
しかしこんな時間にどこへ向かおうとしていたのだろう。
「太一さん、何か言ってた?」
「そのことなんですけど…………」
澤平が言葉を濁して黙ってしまう。表情の変化の分かりやすい彼の顔が、目に見えて暗くなる。
何かがあったのだと雄弁に語っていた。彼のそういうところはときに長所として、ときとして短所として働いている気がする。
「結城さん、明日の早朝にはここを出て、高速バスで地元へ帰るらしいんです。地元で就職する予定だからって。
そんな話をしてたら最後に、岩瀬さんには絶対に言うなって口止めされたんです。でも岩瀬さん、結城さんと仲良かったし、後の仕事だってやってるし……。
何も言わずに行っちゃうっていうのは、なんだかひどい気がして。向かっている方向も、太一さんが回ってる地区の方だったから会わないんですかって聞いたら、いいんだって……。
そのまま来た道を戻っていきました」
澤平はそこまで言って、申し訳なさそうに口をつぐんだ。
春というのはつくづく別れの季節らしい。あっという間に時が過ぎていき、次へ次へと急き立てる。
何かが終わっていくことすら、満足に感じられない。太一さんもまた、何も言わずに去っていく。
そのときふと、意図が分からないままだった言葉が蘇った。
待っているのは、新聞じゃないとか、ね。小山内さんは言った。
だとしたら彼女は何を待っているっていうんだ。春がくるのを? いや春を楽しみたいのなら、むしろ時期としてはこれからだ。
待っている、というよりも期待しているんだ。寒桜の散る春本番がやってくるまでは、来てくれる可能性のあるものを。
「岩瀬さん? やっぱり、言わない方がよかったですか?」
「いや、言ってくれてよかった。ありがとう。俺ちょっと行ってくる」
「え、岩瀬さん!」
澤平の俺を呼ぶ声に返事をしないまま、急いでバイクに乗り込んだ。
俺なんかが行ったところで、何ができるか分からないけれど、澤平が言った通りだ。何も知らず、何も言わずに終わらせるなんて、少なくとも今の俺は納得できない。
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