それは角の取れた熱情【第三話】
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ふと、なぜこの男はそんなにもあたしに入れあげるのだろうと疑問に思う。
妻も子供もいるのに、決して安くない金をあたしに使ってパトロンの真似事のようなことをしている。だがその金がご機嫌を取るのはあたしばかりで、男にとっては相応の見返りもない(そう言い切るだけのひどい我儘をあたしは男にしていた)。
そっと目を配ると男は左足の爪を切り終わり、出来具合を確かめるように優しく撫でていた。あたしにはそれが猫のように気持ちがいい。この慈しむような眼差しはどこからやってくるのだろう。男はあたしになにを求めているのだろう。いつかは何か手痛いしっぺ返しでも食らうんじゃないだろうか。
そう思うのにこの優しい手に愛されることが心地よくて、ついされるがままになってしまう。
「ねぇ、あんたは何を考えているの?」
「うん? 君の爪を美しくすることだけだよ」
男はあたしの右足の踵に手を添え、伏し目のまま言った。戯れの睦言だと思っているのか返事の色は朱を混ぜた白のように淡い。言葉ひとつ、仕草ひとつが罠かと思うほどにたっぷりの蜂蜜がしみ込んでいる。
あたしが目尻を鋭くしたのを知ってか知らずか、男はその蜂蜜にほんの少しの針を流し込んで続けた。
「あとは、そうだな、君がどうかろくでもない木偶の坊と切れるようにと願っているよ」
身を清めることは纏う気を清めることだって言うだろう? と半ば本気なのかわからないような声で、小気味よくぱちんぱちんと切り落とされる爪の音に口調を合わせた。
「なにそれ、変なの。まるで娘に言うみたいね」
ろくでもない木偶の坊、なんてあんた以外にいないじゃない。気を遣ったわけではないが、「娘」のあとにくる言葉ではない気がしてそれ以上は喉の奥でとどめておく。言ったところで男は眉の下がった笑みを見せるだけなのだろうけど。
それを想像するとあたしは何か唐突にこの男が憎らしいような気がして、よく手入れされた白髪交じりの髪を荒らすように乱暴に撫で付けた。生活と年齢のにおいがする整髪料が右手にべとりと付着して反射的に洗い流さなければ、と思った。しかし捕らわれた右足の自由が利かず、どうせすぐに終わるだろうからとじっと身を丸くした。
男は自分の乱れた髪の毛など微塵も気にする様子がなく、あたしの足の爪をまあるく女らしい形に整えていく。その指は思っていたよりも武骨で、節くれだった関節の皺が白く濁っていた。
見てくれはとても器用には思えず、他人の世話を焼くよりも女の肌の上を乱暴に滑らす方がよく似合っているように見えた。現に肌を合わせていると、若い男にも見劣りしない精悍さと歳に応じたしなやかさとがあたしの細い首を締めあげるのではないかと思ってふくらはぎから腰にかけての線が震えた。
男性の手とはみんなこんなものだっただろうか。それともこの男だけが特別なのだろうか。
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【第四話】に続きます。
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