それは角の取れた熱情【第二話】
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彼は格子柄の模様のついた爪切りを器用に片手で持ち替え、左足の小指から順に切り始める。するとみるみるうちに伸びすぎた硬い皮膚は形よく整えられ、女らしいしなやかさを持つ。
あたしの爪は男っぽく少し不格好だったけど、彼が手入れをするとしなを作ったように色っぽく見えるから、あたしは爪を切りたくなったからと言って男を呼ぶことさえあった。
それでも駄々っ子のように「綺麗な形にしてね」とねだると、男はとろりとした粘り気のある声で「わかっているよ」と応えた。ふた回り以上も歳下の若い女にかしずかされている癖にいつもこんな調子だから、あたしの声には命令の色が増していく。
つくづく結婚に向いていない、と心の底から思う。
細くたなびくような愛など持っていないから、自らと相手を燃え焦がすような恋しかできない。この男とだってはじめて関係を持ったときこそ背筋が罪悪感で震え上がったが、彼が甲斐甲斐しく世話を焼くのを良いことに日常の一部と同化しつつある。
もはや愛でも恋でもなく、これは金銭が発生しないだけの上下関係に近い。他者から与えられる熱は刺激的で、それでいて慣れやすいものらしかった。
しかし男にだって責任はある。彼は終始あたしを甘やかし、物理的に不可能な願いを除いた大抵のことを叶えてくれた。新しい紅がほしいと言えばデパートから取り寄せ、服がほしいと言えば平日であっても車を出す。求めずとも与えられる猫っ可愛がりが女をどう変えるかくらい想像がついただろうに、それでも彼は愛おしげな眼差しを注いでやまない。
だから両親や友人の前では慎ましく装う白い女が、男の前でだけは欲の業火に焼けた赤い女になってしまう。
もはやそれを当然のこととしてあたしは昼夜問わず男を呼び出したし、男の誘いを「忙しい」と無碍に断ったことも数知れない。もちろん気分が乗れば日のあるうちから身体を合わせることもあったが、すべてはわたしの返事ひとつにゆだねられていた。若いあたしに熱を上げる良い年の男、という頭に浮かんだ触れ込みだけが背徳の憩いだった。
男に爪を切らせたまま、半分空いた障子の隙間から外を見やる。潮に白んだ景色は海と空との間を曖昧にし、萎びた青い雲が漂っている。
彼があたしを呼び寄せるために用意した部屋から見える世界はいつもこんな風だった。輪郭のないゴムまりみたいな、骨のない番傘みたいな。
あたしはその真ん中にいて、尾びれをつけた男が泳ぎ回って騒々しく世話を焼く。まるで異国のお伽噺だ。やっていることは所詮他人の男と寝て、されるがままに貢がれ、その甘い蜜を吸っているに過ぎないのに。
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【第三話】に続きます。
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