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月面に根は張れるか。#創作大賞2022


 当日の手荷物はできるだけ少ない方がいいだろうと言って、妻は黄緑色の小ぶりなリュックサックを買ってきてくれた。どこかのブランドのアウトレット製品らしいが、僕にはよくわからなかった。

 蛍光色と言うよりは若葉色に近いリュックサックは、ハンカチとちり紙、歯ブラシと顔を洗う用のタオルなんかを入れるとすぐにいっぱいになった。

 僕は妻の綾子に聞く。

「月に着くまで少し時間があるけど、本当に着替え持っていかなくて大丈夫かな」

 同じく部屋の隅のクローゼットで荷物をまとめていた綾子は、顔の右側だけを振り返って答える。

「大丈夫だって。この前の説明会でも聞いたじゃん、宇宙船の中では一時的に体の活動が弱くなるから汗もかかないし汚れないって。替えの下着だけあれば良いよ」

 綾子は僕のリュックサックよりもだいぶ大きな鞄に、それでも詰めきれないほどの荷物を並べてどれを持っていこうか思案していた。その中にはTシャツやジーンズなど着替えも入っている。なるほど、説得力がない。

 僕はこっそり手持ち用のトートバッグを引っ張り出して、そちらに少しだけ着替えと彼女が好きなお菓子を詰めておいた。

 荷物の支度を終えて手持ち無沙汰になった僕は綾子の背中を眺める。この線の細い体にどれだけのパワーが詰まっているんだろう。彼女が一年前に月面移住の抽選に応募していなかったら、そしてそれが見事当選していなかったら、僕は一生涯地球から足を離すことなんてなかっただろう。活動的な人といると自分まで活動的になった気になる。


 思えば僕の人生はほとんど東京都の下町で完結していた。大学卒業に至るまで家を出なかったし、一人暮らしを始めたのも両親が「あんたみたいなのほほんとしたやつは苦労した方がいい」と追い出されたからだった。確かに僕は三人の兄弟の末っ子で一番とろく、何事にも慌てるということをしなかった。

 そういう性格が彼女の何かしらの琴線に触れたのか、僕と綾子は二年前に結婚した。綾子はそれまで海外でバックパッカーをしたり、日本の被災地でボランティア活動をしたりとアクティブに世界を飛び回っていた。綾子曰く、彼女は「根無し草」というやつらしい。どこにも居つかず、知らない場所を転々とする。世界中のどんな土地も彼女を拒みはしないが、同時に彼女だけの居場所も存在しないのだった。

 その話を聞いた時はもちろん僕だって驚いたが、いかんせんのほほんとした性格なのでびっくりが伝わらなかったらしく、綾子には「器の大きい人」としてインプットされたらしかった。人生何があるかわからないものだ。

 それから時々は綾子をイライラさせながらも、お気に入りのお菓子と得意の話題逸らしで円満な結婚生活を送ってきた。綾子のことは両親もすごく気に入っていて、月に引っ越すと報告した時にはさすがに目を丸くしていたが「旅行に来たら泊めて頂戴」とのほほんとしたことを言っていた。ちなみに彼女の両親は僕と出会うずっと前に事故で亡くなっていて、私は天涯孤独な根無し草なの、と綾子は自嘲気味に笑っていた。


 そんな二年間のことを思い出していると、とても入りきらない荷物をぎゅうぎゅうに詰め込んでいた綾子が寝室にかけてある時計を見た。

「明後日の今頃にはもう宇宙船の中なんだね」

「そうだね、無重力空間で遊んでいるか、機内食でも食べてる時間だね」

「無重力かぁ、一ヶ月前に訓練受けたけど、あんなにずっと体が軽かったら太りそうだよね。あなたのぽっちゃりお腹も無重力でたぷんたぷん揺れてたもん」

「良いんだよ、月に行ったら無重力ダイエットにでも励むから。でも最後にムーン・サルトのモーニングは食べておきたいね」

 そう言うと綾子はクスクス笑った。ムーン・サルトは家の近所にある古いパン屋さんで、そこで出しているモーニングセットが僕らふたりのお気に入りだった。休日は大抵そこで朝ごはんを済ませ、腹ごなしに公園や商店街を散歩する。ふたりで外を歩くたびに僕が生まれ育った町を紹介するので、彼女は「それ何度も聞いたよ」と呆れながらも相槌を打ってくれる。その度にショートカットの後ろ髪が楽しそうに跳ねるから、僕は嬉しくなって繰り返し話してしまうのだった。

「地球って、宇宙から見たらどんな色なんだろうね」

「うーん、想像もできないな」

「平介はこの町以外想像もできないんでしょ」

 根無し草の私とは違ってね、と綾子は言った。嫌味ではなく、むしろ褒められているのだとわかるから僕はそれ以上何も言わなかった。

 結局綾子はバッグに荷物を詰めきれず、放り出したまま髪を切りに出かけた。月にはまだお洒落な美容室がないらしく、行く直前に手入れをしておくのだと言っていた。それに習って僕も出掛けようかと思ったが、大して髪も伸びていなかったし、いざとなればバリカンで綾子に刈ってもらえば良いのだと思ってやめた。

 月へは宇宙船に乗って丸一日。朝一で乗り込み、飛行機のエコノミーに毛が生えた程度の席で綾子と話しながら暇を潰して、次の日の朝には月面に降りられるらしい。

 全く実感は湧かなかったけれど、綾子が楽しそうにしているからそれだけで僕は満足だった。

 少し前に図書館で借りた「月世界旅行」のことを思い出す。天文学者たちが月面で月の人類と出会い、追い追われた末にコウモリ傘で応戦し、命からがら地球へ逃げ帰る話だ。今や月はだだっ広い無機物地帯として地球の領地になってしまったが、別の進化を遂げた生命体っていうのもなかなか面白い。

 そう話すと友人たちにはまた「相変わらずのほほんとしたやつだな」と笑われたが、僕にとって月は面白そうなことの方が多くて、地球を出ることで失われるものがあまり思いつかなかった。

 地球を離れたら何かが変わるだろうか。平介はいつものほほんとしているからきっと何も変わらないだろうね、と綾子が少し前に言っていた。さすがにそんなこともないだろうと思ったけれど、彼女が言うのならそうかもしれないとも思う。

 小腹が空いたのでお菓子の袋を開けたが、綾子が楽しみにしていたとっておきだと思い出してそっと閉じ直した。食べ物の恨みは怖いから、いくら月に行ったとしてもそれは変わらないんだろう。


***


 隙間なく掃除の済んだ家を出たのは、ちょうど朝七時を回ったところだった。玄関から寝室、台所に至るまで完璧にピカピカなのは、次に住む綾子の知人へ向けたプレゼントのつもりだと彼女は言った。僕は綾子のそういう心意気が男らしくて好きだと思う。あと行動力があるところも。

 月での生活で必要なものはすべて宅配便で発送してあった。今は便利な時代だ、数年前に作られた月の住所を書き込めば大抵のものは一律の金額で配送してくれる。

 僕と綾子は出来るだけ小さくまとめた荷物を持って二年間住んだ家に別れを告げた。彼女が買ってきてくれたリュックは当面僕の相棒になるだろう。センスのかけらもない僕のファッションはほとんどが綾子の趣味で、初めて会った人や旧友に服や小物のことを聞かれるとしどろもどろになってしまうのだった。

 最寄りの駅から電車を乗り継ぎ、日本で唯一の宇宙ステーションへ向かう。東京のはずれにできたそれはまるで夢の国のように華やかで煌びやかだった。なんでも海外の有名建築家が設計したらしいが、詳しくは知らない。

 フェンシングの剣のような形をした宇宙ステーションの鉄骨造が見えてくる頃、綾子は徐々に不機嫌になった。お気に入りのお菓子を開けてあげても、とぼけたことを言って笑わせようとして彼女は浮かない顔をしている。これは大変だ、と思いながら小さな綾子を見下ろしながら歩く。驚いたり焦ったりした時に顔や声に出ないのが僕の欠点だった。

 ステーションのエントランスは思いのほか人が少なく、空港なんかとはずいぶん勝手が違っていた。いくら誰でもが月に行ける時代になったとは言え、まだまだ旅行先としてはメジャーではない。なにせ僕は綾子がいなかったら一生地球を離れなかっただろうと思うくらいには、まだ遠い存在だった。

 無重力とまではいかないがふわふわの二人掛けソファで受付の順番を待つ。審査には時間がかかるらしいから、電光掲示板を時々チラ見しながらのんびり待つ。これで地球とも当分はお別れなのか、と少し感慨深い。

 宇宙ステーションは無骨にむき出した鉄骨以外はガラス張りになっているところが多く、外の景色を見渡せた。木々に覆われた先に馴染みの下町に似た錆びた家々が並び、さらに遠くの方でビル群の隙間隙間から東京湾がちらちらと見え隠れしている。珍しく綾子もぼうっと窓の外を眺めていた。僕はそれを見ながら黙りこくった綾子に話しかける。

「月ってどんな良いところだろうね」

「どうかな、良いところかも分からないよ」

 拗ねた子供のような反応をする綾子に少しびっくりしたけれど、たぶん顔には出なかった。僕は何にも気にしていない風を装って続ける。

「月から見ると地球の海がとっても青くて綺麗なんだって。見てみたくない?」

「見てみたくない」

 やはり僕の勘違いではないらしい。綾子は更に仏頂面になって眉間にシワを寄せた。そのシワに指を当てて伸ばしたいと思ったけど、たぶん怒られるので我慢する。

 彼女はきっと月に行きたくないのだ。どうしてかは分からない、でも月に住むための講習を受けた時に講師の先生も確かに言っていた。はじめての一人暮らしでホームシックのように、地球を離れる直前になって気持ちが落ち込んだり、急に嫌になる人は少なくないらしい。

 僕はそんなものかなぁと思いながら聞いていたが、綾子のそれもやっぱりアースシックというやつなのだろうか。

 何と言って宥めたらいいかしばらくは考えていたけど、残念ながらいい案は浮かびそうにもなかった。ステーション内に少しずつ人が増えはじめてきて、小さな子供が楽しそうに両親と搭乗を待っている。右手にはチケットがギュと握られており、しきりに自分で渡したいと話しているらしかった。それを横目に眺めていると、綾子が言った。

「あんなちっちゃい子も月へ行くんだね。あの子は一生のほとんどを月で過ごすことになるのかな」

「そうだね、月があの子の故郷になるのかもしれないね」

「なんだか変な気分だね」

 変?と問い掛けようと思ったけど、彼女の不機嫌の理由がわかったから黙っておいた。代わりに僕は別の話をする。

「機内食はお肉と魚、どっちが良い?」

「お肉も魚も嫌、パンが食べたい」

「じゃあ買いに行こうか」

 僕がのんきにそう言うと、綾子は不思議そうに首を傾げていた。僕は立ち上がって綾子の腕を引っ張る。釣られて彼女も立ち上がり、宇宙ステーションを出た。

「ちょっと、順番までもう少しだよ」

「うーん、でも今日は僕もパンの気分だから」

 行儀よくお腹がぐぅと鳴った。それが聞こえたのか綾子が少し笑う。

「それに月から見る海よりも、地球から海を見たくない? 最近海なんてしばらく遊びに行ってないよね」

 頭の回転が早い彼女は僕の言葉の意図が掴めてきたのか、少し弱々しく言った。

「でも、宇宙ステーションの窓からも海が見えたよ」

「そうなんだ、全然気がつかなかったよ。綾子はよく見てるね」

 彼女の手をぐいぐいと引っ張って歩く。適当に歩いてきたけど、この道はどこへ出るんだろうとぼんやり考える。綾子なら知っているだろうか。でも彼女は僕の考えなしを「器が大きい」と言ってくれる人からきっと大丈夫だろう。

「それに僕、やっぱり着替えは必要だったと思うんだけど、どうかな」

「着替えならそのトートバッグの中にあるじゃない」

「ううん、この中身は全部お菓子だよ」

 それも綾子の好きなやつばっかりだよ、と言って誤魔化した。もちろん下の方には着替えが入っているから彼女には見えないように反対側に隠す。

 彼女の眉間のシワはいつの間にかとれていて、「お腹空いた」と言ってひとりでにずんずん歩き出した。

「ムーン・サルトのモーニングセット、まだ間に合うかな」

「間に合うよ、きっと。クロワッサンはもうないかもしれないけどね」

 僕がそう返すと、綾子は一度ぶすっとした顔を作ってから今度は思いっきり笑った。釣られて僕も笑ってしまう。彼女が笑っていたら僕はいつだって楽しいのだった。

 僕も競うようにずんずん歩く。宇宙ステーションからは少しずつ離れて行く。

「ごめんね、平介」

 綾子が小さく呟いた。

「僕があの町に根っこを下ろしてたから、綾子の根っこも釣られて絡まっちゃったんだよ」

 よくあることだよ、と僕は言った。続けて、綾子はもう根無し草なんかじゃないよ、と言おうと思ったけど、彼女がクロワッサンがないならロールパンが食べたいなぁと話し始めたからやめた。

 もしも次に月へ行く機会があったら、今度はコウモリ傘を持っていって綾子を蝕むアースシックをから守ってやろう。そう決めて、僕と綾子は木漏れ陽のトンネルをくぐっていつもの町を目指した。


おわり



***




 2019年12月に投稿した小説を改稿して公募に出そうと思ったのは、どれだけ時間が経っても私の頭の中に居座り続ける唯一のキャラクターが物語の主人公・平介だったからでした。

 私は登場人物に深い愛着が湧くほど長い物語を書く方でもなく、キャラクター設定に凝る方でもなく、どちらかと言えば物語の中の人々とは淡白な付き合いをしてきた人間でした。それがどうしてこんなにも彼に思い入れが出来てしまったのだろうと不思議でなりません。

 ですが小説を書くということは、書き手自身にも時々そういう不思議なことが起こるものなのかもしれません。頭の中で「やぁ」と手を振る彼と遊ぶような気持ちで、ちまちまと語尾や言葉を換えながら物語を作りました。平介の存在が、彼を取り巻く人々が、何かの形になってくれたら嬉しいです。

 最後になりますが、お読みくださりありがとうございました。

 また平介と綾子を好きになってくださった方は、下記の物語とも遊んでくださると嬉しいです。


・胞子は心臓を侵すか【前編】【後編】

・システムは愛を同期するか【前編】【後編】

宇宙人襲来の日はベランダで君と遊ぶ




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