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暗闇は時に恐ろしく、時に優しく背中を撫でる

完全な暗闇というものを、どれだけの人が体験したことがあるだろうか。

完全な暗闇とは、その名の通り一筋の光すらも断絶された、完全無欠、それでいて四面楚歌な空間のことである。

言葉で言うのは簡単だが、それを作り出すのは決して容易ではない。その証拠に今、あなたは「目が慣れる暗闇」と言うものばかりを想像しているだろうが、それは見当違いだ。

完全な暗闇という奴には、目が慣れるという中途半端な救済措置を持ち合わせない。人間の反射的な暗順応などは物ともせず、小さな人間たちの前に立ちはだかって動かないものだ。

つい最近、そんな不可思議な空間に出会う機会があった。

その看板を見つけたのは友人の方で、由美はいかにも女の子といった声をあげてわたしの服の裾を引いた。

「ね、暗闇体験だって。面白そうじゃない?」

促されて看板に目をやると、黒い壁に白抜きの文字で説明書きがあった。どうやら完全に光が遮断された世界を体験できるという企画らしい。

「確かに面白そうだけど、あんた怖いの苦手じゃない」

「でもほら、お化け屋敷じゃないから怖くないって書いてあるよ」

由美が指し示す先には、確かに口先だけで言ったような言い訳じみた台詞が書いてある。暗いだけだと言えばそうかもしれないが、夏真っ盛りの時期にこんな企画をやる時点で、明らかに涼を求める若者向けという感じだろう。

どうしてもと引っ張られて入口の受付に足を踏み入れる。確かにおどろおどろしい感じはしなかったが、シンプルすぎる室内はどこか演出された無機質さを感じる。もしくは単なる経費削減かもしれないが。

中には1人の男が座っていた。学校などでよく見かけるパイプ椅子に、これまたよく見る長机。そこに腰掛ける男は如何にも胡散臭そうな男で、その後ろに隠れる暗闇体験は爬虫類のように生きているくせに全く動かない動物のようだった。男はわたしたちが来た時だけ妙な作り笑いをして、いらっしゃい、と外国人のような少々の片言で言った。

「1人200円だって。安いね」

本当に思っているのかわからない言葉を口にして、彼女は右手に下げていたハンドバッグから財布を取り出す。すでに入るつもりらしい。怖いもの見たさだろうが、こう意地になったら止めるのは難しい。怖いものが苦手でも得意でもないわたしも、仕方なく財布を取り出した。

由美はそんなわたしを見て満足げにニコニコしている。こういうところが彼女から男が途切れない所以なのだろうな、と思った。可愛らしい容姿もさることながら、ちょっと我儘なお嬢様然とした振る舞い。こういう「女の子らしさ」に男たちも惹かれるのだろう。

しかしその気質は同時に、厄介ごとを引き込む種でもあった。いつだかの彼氏だった男は少々粘着質で、彼女をひどく束縛するような行為を繰り返していた。振られた後にもつきまとい、まるで彼氏だと主張するように人前で彼女の手や肩に触れようとしていた。もちろんはっきりした性格の由美が拒否したため、やがてそんな行動も減っていったようだが。

彼女は胡散臭げな男を気にするそぶりを一切見せず、200円を払って入り口に立つ。わたしも同じように料金を置き、彼女に続いた。

入り口から見る限り、中は壁に仕切られただけの何もない場所のようだった。奥へ入っていくと徐々に入り口から漏れ出していた光が失われていき、やがて壁すらも判別できなくなっていく。わたしは説明書きにあった通り右手側の壁に手を当てて伝いながら、彼女の声を目印にしてゆっくりと歩いていく。

本当に何も見えない、暗闇の中に居続ければ直に目が慣れるものと思っていたが、完全な暗闇の中ではそんなこともないらしい。だから目の前に壁があっても手が触れるまで全く気が付かない。これは確かに初めての体験と言えるだろう。

少し前を歩いているだろう由美の声が聞こえる。きゃっきゃっと嬉しそうにはしゃぎながら、順調に進んでいるようだった。しかしその声は徐々に小さくか細くなり、明らかに怖がっているのがわかった。

「由美、大丈夫?」

「沙也加、そこにいる?」

質問に質問で帰ってくる。少し焦っている由美の表情が思い浮かんだ。わたしは前の方に手を伸ばすが、由美にはぶつからない。暗闇の中では声との距離感も分からなくなるらしい。

「大丈夫、近くにいるよ」

「ほんと? もう早く出たいよ」

情けない声を出す由美を励ましながら前に進む。少し足早に歩を進めるが、一向に由美に追いつく気配がない。しかし相変わらず近くに声がするから、彼女も早く出ようと急いでいるのだろう。

右へ左へ、また右へ。壁伝いに進んで行く。一切の光のない回廊の中、妙に視力以外の感覚が鋭敏になる。

由美の怯えが移ったのか、嫌な想像ばかりが考えを支配し始めた。こんな暗闇で階段などあるはずがないのに、一度考えてしまうと急に視線が下へ向いてしまう。人がいるはずもないのに、あるはずもない視線を嫌に感じてしまう。鋭敏になっているのか、それとも感覚が狂ってきているのか分からない。不意に暖かさを感じたり、反対にひやりと這うような冷たさを感じたり、落ち着かない。

普段気にも留めないような、考えたこともないような恐怖が、暗闇の中ではたちまち身にまとわりついてくる。街灯に群がる蛾のように、わたしたちは前へ前へと歩き続ける。

左へ、右へ、また左へ。本当に出口に近づいているのだろうか。かえって奥へ奥へと迷い込んでいるのではないか、そんな気にさせられた。

そして、光は突然現れる。

見間違えかと思うほどぼんやりと漏れ出す光に、足がもつれる。歩くほどに光が濃く強くなり、暗闇は逃げるように後ずさる。

入り口は思うよりも呆気なく、わたしたちの前に現れた。わたしを振り返った由美の輝くように明るい表情が、さらに明るくなる。

眩しいくらいのライトと、真昼間の陽光は一切の闇を振り払うようだった。

「怖かったね、途中もう歩けないかと思ったよ」

「ほんとだね」

彼女は思ったよりもあっけらかんとした顔で、受付の男を気にも留めずに店を出る。

より光が強くなり、世界はすべての色を取り戻したようだった。中でも由美の美しさは鮮やかで、女のわたしでも見惚れてしまう。彼女の唇が楽しそうに開く。

「でも沙也加がずっと背中に手を当ててくれてたから、ちょっと安心した」

ありがとう、とにっこり笑う由美。いつもならその笑顔にどんな我が儘も許してしまうほど口元が綻ぶが、今日ばかりは背筋が凍りついた。

わたしは何も言わず、暗闇を振り返る。受付の男は消えていた。


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