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子供が本人史上最高の映画を発見して映像表現への理解の扉を開いた

サメが大好きな5歳の子供が今週、最高の映画に出会いました。もう夢中でかじりつくようにして観ていました。1日に2回も上映会を開催させられています。止めなければもっと観ていたでしょう。

その最高の映画とは、『ファインディング ニモ』です。なんだ、それかって思いましたか?でも、長い人生を5年も生きて幼稚園という厳しい世界で世の中の表も裏も見てきた経験豊かな人物が評価する映画です。

主人公は、カクレクマノミですが、この幼児はサメの登場するシーンがお気に入りです。サメは、ホホジロザメ、シュモクザメ、アオザメの3種と思われますが、子供はホホジロザメでなくメガロドンだと主張しています。メガロドンの熱烈なファンらしいまっすぐで力強い姿勢です。

他にもチョウチンアンコウやウミガメやエイ、ヒトデ、クラゲ、クジラ などたくさんの海棲生物も登場して楽しませてくれます。まるで大きな水族館のような作品です。子供が夢中になるのも納得です。

ところで、現代っ子は生まれた時からYouTubeを日常的に観て育っているのではないでしょうか。我が家の子供もそう。恥ずかしながら。

恥ずかしながら?どうして?

理由は簡単。YouTubeの動画は玉石混交で、残念ながら玉より石の方が遥かに多いことを分かっていながら、大切な子供に価値のないくすんだ石ころを延々と見せることが良い子育てとは呼べないことを知っているからですね。

実は、その数年にわたる石ころ鑑賞会を経て我が子はある症状を見せるようになりました。深刻な症状です。それは、「間」を理解できない、という病です。表現の間です。いわゆる「行間」を含む表現です。YouTubeを見続けた子供は、物語がすぐに始まって、すぐに派手なシーンが連なって、音やセリフがなかったり動きがないシーンが1秒たりともなくて、あっという間に終わり、次のエピソードも間をおかずはじまる、という顕示的なイベントシーンに満たされた映像に慣れてしまいました。そのため、最初に「伝統的な」映画ードラえもんの映画でしたーを観たとき、冒頭の序章部分とそれに続くテーマソングが流れているとき、退屈な日常描写だけで事件が起こる気配が全くないばかりか悠長に歌を歌っている、と子供は激怒していました。いつまで待ってもお話が始まらないじゃないか、と。シーンがゆっくり暗くなったり誰も喋らない静かな場面も我慢ならず機器の故障かと疑う始末です。無音であったり動きのない場面、セリフの抑制には何かの意味があるはず、という発想は育まれていないようです。しかも、長すぎていつまで経っても終わらないじゃないか、とカンカンです。長編作品をじっくり観るだけの根気も育っていません。

それはまだ子供だから?それもあるでしょう。子供は目に見えてはっきりと分かりやすいものを好みますし、深い映像表現についてはまだ無知です。行間を読むなんてできません。しかし、難解な大人向け映画でなく、子供向けの映画ですら落ち着いて観ることができず、それどころか表現を表現でなく作品の不完全さや欠陥だと誤解してしまうなんて、健全ではありません。理解はまだ望めなくても、そのような表現への慣れがなければ将来、高度な芸術表現を理解する道が制限されてしまうでしょう。

最終的にはドラえもんの映画も気に入ってくれましたが、子供に最初に観せるべきものはYouTubeではなかった、と反省しました。

それ以来、意識的にYouTube以外の映像作品を紹介して、表現の文法に慣れるよう促してきました。その甲斐あってか今回ようやくお気に入りの作品に出会えたわけです。まだまだ分かりやすい表現とお魚さんしか目に入っていませんが、何度も観て様々な表現に気がついて慣れていってくれれば良いと思っています。

5歳さんは今日も楽しく『ニモ』を観てくれています。ただ、字幕版なんですよね。英語はわからず、字幕の文字はまだ読めません。映像だけを手がかりに話の筋を推定していますが、なんとなく合っているように思われます。加えて気に入った英語のセリフを真似たり、魚の動きを真似しています。ぜひこうやって映画を楽しみ尽くしてくれると良いと思います。

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