見出し画像

マルクス主義から見たVtuberーー資本主義の魔法少女

1人の人間に対して、何千人、何万人といったおびただしい人間が金を貢ぐ。膨大な時間を費やす。
Vtuber、アイドル、推し活…。考えてみれば、非常に奇妙なことが、私たちの日常の中でごく普通に起きている。

一体、どうして、このようなことが可能なのか?

答えは少女の「商品化」にある。つまり、にじさんじ、ホロライブのような資本の再生産システム群(企業)が、何の変哲もない少女たちを「商品」に仕立て上げることで、膨大な人間からの可処分時間や可処分所得の搾取が可能になる。

なお、ここでは、このような少女の商品化を「魔法少女」と呼びたい。
というのも、かかる現象は単なる人間の商品化ではないからだ。少女の商品化というのは、労働力商品のような「部品的扱い」が可能になることではなく、むしろ、商品であるがゆえに、生々しく性的な神秘性を伴う。
ここには計算がある。Vtuberビジネスでは、社会の上部構造として確固たる地位を占める無数の性的なイメージの断片、おびただしく生々しい性的な想像力をかき集めて、それらを巧みに繋ぎ合わせ、実物の自然的な少女たちを一つの性的な商品(=フィクション)、すなわち、「魔法少女」という見事なまでの生ける幻想に加工してしまうのだ。言ってみれば、「商品の物神化」を人為的に引き起こすビジネスである。それゆえに、物神化の必然的な帰結として、おびただしい人間たちは一人のVtuberを神秘として熱心に崇拝してしまうわけだ。
したがって、少女の商品化とは、単なる商品化ではなく、商品の神秘性自体を商品化しているという意味で魔法少女なのだ。

資本制において発動する、この「物神の力」を利用して、崇拝を人為的に引き起こすVtuberビジネスにとっては、今日的人間はとても都合がいい。何しろ、言うまでもなく、資本が用意した今日的人間は、人格ではなく、物象を崇拝するのだから。
このように考えてみると「推し活」とは典型的な物神崇拝にあたると言える。というのも、スマホの画面の中で歌って踊る華やかな少女たちは、すでに人間ではない。単なる商品である。つまり、舞台上の少女はヒトではなく、モノである。
少女たちが「モノ」ならば、推し活とは「商品という幻想の神さまを信じて推している」という無意識の抽象的な宗教活動である。もっと乱暴にあっけらかんに言ってしまえば、推し活とは、ヒトではなく、単なるモノを崇拝する活動だと言えるだろう。

ところで、物神崇拝を必然的に誘発する「魔法少女化」は、かわいらしい少女たちに、強力な権力を貸し出すことになるだろう。
このことを考えるために、よく聞く「かわいいは正義」という社会的言説を考察してみよう。
「かわいいは正義」における「かわいい」はねじれた権力構造の中に在ることを示している。
すなわち、この「かわいい」という記号は、ブルデューのいう文化資本として機能する。「かわいい」という記号的な商品と化す少女たちは、ある意味、人間を軽視する横暴な振る舞いをしても、あるいは、何かしらルールに抵触して違背したとしても「社会的なサンクションから許される」あるいは「社会的なサンクションが軽減される」という事態が発生し得る。 なお、サンクションとは、法制度上の罰だけではなく、非難、顰蹙、不快、怒号、軽蔑、無視、排除、ラベリングといった罰にかかわる社会的行為を含意する概念である。
こうしたサンクションから許されると言ったけれど、これは「許す」という言葉があるところから「許す主体」が存在することが窺える。 許す主体 と 許される客体 は「許す-許される」「能動-受動」という関係から分かるように権力関係がある。
つまり、少女たちは、権力が行使される側にいる。では、かわいらしい少女たちは許される客体にあるから権力に対して服従する側にいる…だから彼女たちには権力が発動していないきや、違う。そうではない。
少女たちは、すでに資本制のもとで、物神の力を借りた神秘的な、かわいいかわいい「魔法少女」となっていることを忘れてはいけない。
許す主体は、魔法少女に対して「許し」を与えなければ、その主体が、別の主体によって、非難されるというサンクションの可能性を内包している。 なぜなら、少女たちは、かわいいを具象した性的な商品なのだから。商品に対しては、ましてや性的商品に対しては、丁寧に扱わなくてはいけない。決してそのイメージを汚してはいけない。
したがって、魔法少女という商品に対して「許さない!許さない!」と怒り散らす消費者に対しては「商品を汚すんじゃねえ!」と別の消費者が現れる。このように考えると、物神化した少女たちには権力が行使されると同時に権力を内包していると言えるだろう。
もっと厳密には、彼女たちの「かわいい」という記号的な商品形態が、文化資本が、言い換えれば「魔法少女化」こそが、権力を保有する契機である。
ここで少女はヒトとしては無力だけれど、モノとしては有力である。商品形態が神秘性を引き起こすからだ。「かわいい」は、ねじれた権力構造の中に在る。

こうして、「かわいい」を実現する魔法少女という生ける商品が群勢の前に立ち現れる。 彼女たちは魔法少女になったからには商品として振る舞い、商品として言動を生産し続ける。正確さを殺し、分かりやすさを優先すれば、彼女たちは魔法少女になる代わりに、金になる行動、金になる言葉を生産し続けなくてはならない。さもなければ、物神の力を喪失して、ただの人間として、舞台上の商品世界から除外されてしまう。 彼女たちは、商品として振る舞うからこそ生かされているのだ。
以上は、魔法少女の生産過程上の事情である。

消費の世界では何が起きているのか?
Vtuberの、なんとか船長とか、なんとか団長とか、生々しく精密に動く性資本が、全く「資本制における計算上の産物」と知らない、いや、知りたくもない盲目の消費者、無数の資本主義的信徒は自ら率先して、この商品を崇拝する。つまり、推す。
彼らは画面の前で、その笑顔を崩す暇もなく、貨幣や時間が、ごくごく自然に、彼らが無意識のうちに、資本制の再生産に必要な過程として搾取されてしまう。
貨幣や時間が搾取される構造が再生産されるのは、少女たちが、舞台に立った時点で「生き生きとした、まるで現実を超越した超現実的な幻想(エロティシズム)」として現象して、彼らがこれを「人間」として取り違えて崇拝することで再生産される「資本主義の魔法少女」という共同幻想に由来する。
言ってしまえば、現実を遥かに超える美しく魅惑的で神秘的な性的な虚構が、消費者の内面世界に現存在として現象していることになる。
すると、どうなるのだろうか?
彼らは終わりなき自慰行為に駆り立てられる。 ここでいう自慰行為というのは比喩ではない。 文字通り、オナニーだ。事態はオナニー資本主義だ。 彼らが魔法少女という記号(オカズ)を、時間・貨幣を搾取されることで自己の内面世界にそれを供給して、最終的にオナニーという必死の消費プロセスに走るからこそ、ホロライブ や にじさんじ という搾取機構は、搾取のためのシステムと自覚されることなく、少女たちを物神として提供して、ごく自然に経済生態系の中で安寧に根を生やすことができる。
資本は自らの生命をつなぐために、人間のありとあらゆる欲求を容赦なく拡張するべく運動する。
この経済法則は、ありとあらゆるものが商品となる今日ほど明晰に現れている時代はないだろう。
弱者たち(とりわけ弱者男性)の自慰への飽くなき欲望は、資本の増殖運動によって今後もますます拡張されていく。
そして、このオナニーという消費過程が、真っ白な大地の上で踊る、神秘的な魔法少女という現実以上の幻想を再生産していくだろう。
何しろ、現実を超える生き生きとしたその幻想はまさに「生き生きとしている」がゆえに「本当に生きている」と錯覚をもたらしてしまうのだ。
それゆえに、かかる現象は経済形態規定であるにもかかわらず、まるで魔法にかけられたみたいに画面の中の美しい少女たちが現実に存在していると信じてしまう。
こうして現実と幻想の転倒した倒錯的な内面を抱える弱者はひたすら自慰行為に走る。個々の幾千幾万のおびただしい自慰行為が、総体として魔法少女という物神を支えているのだ。 もう一度、言おう。事態はオナニー資本主義だ。

これは、決して不思議な現象ではない。
現代資本制であれば、ごくごくありきたりな「搾取する - 搾取される」という搾取形態の一つにすぎない。

今や、物神の力は世界中の至る所に点在する。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?