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「普通になりたい」を支える下部構造

同級生から「普通になりたい」「普通の仕事につきたい」という言葉をしばしば聞く。少し遠くを見回してみると「普通が一番」という言説もあるらしい。普通が一番…?一番と言えば、普通より上位の何者かを意味するのではないか? してみると、何やら普通という言葉には並々ならない意味が込められているように思われる。

自分よりも幼い世代にも目を向けてみる。そこで注目した今の小中学生のなりたい職業ランキングでは「従業員(会社員)」が上位(それも1位とか、2位)にランクインしている。従業員…? 従業員と言っても非常に漠然としている。一体、なんの従業員なのかと問いたくなる。要するに、具体性がない。(非難ではない) なんだか、この言葉は「普通」という抽象語を変形させた言葉のように聞こえてしまう。

ところで、少し前に流行した漫画に、チェンソーマンという題名からして血みどろクレイジーな作品がある。主人公からチェンソーが生えて悪魔をバッタバッタと斬っていくという非常にスプラッターな漫画だが、この作品が多くの若者を魅了した。どこが魅了するポイントだったのだろうか。ざっくりと大筋を確認してみよう。
人と悪魔が住まう世界、チェンソーマンの主人公であるデンジはヤクザに借金を背負って貧困生活を強いられていた。デンジは「普通の生活」に憧れていたが、それと対照的に現実は過酷を極めた。デンジは自分と契約した悪魔であるポチタと共に、命をかけて凶暴な悪魔を倒して、倒した悪魔の臓物をヤクザに横流しして何とか生計を維持していた。しかしある日、デンジは、「用済み」として、ヤクザに裏切られて殺害されてしまう。そこでデンジは家族同然だったポチタと契約を結び「チェンソーマン」としてよみがえる。それ以来、デンジはデビルハンターという仕事に就き、血みどろになりながらも悪魔を討伐して普通の生活を実現していく…。だいたい、このような大筋である。
大筋から分かるように、主人公の願いは「普通の生活を送りたい」「普通に生きたい」であり、作品全体に貫通するテーマの一つになっている。ここに「チェンソーマン」が多くの人間の心を掴んだ所以があるのではないか。少年ジャンプでありながら、爽快なまでに赤裸々かつ暴露的に描かれるデンジの抱いた思いが、現代人、とりわけ若者(学生)の社会心理にも通底しているのではないか。

しかし、学生が普通に生きたかったとして、この「普通」とは一体、何を意味するのか。普通といっても曖昧な言葉で全く捉えどころがない。
そこで以下では「普通」という観念を解明的に理解するべく、学歴資本主義の視座に立って、学生の基本的な社会状況を把握することから始めたい。

まず、社会人という言葉が示しているように、学生は社会人の一員だと見なされていない。社会人と承認されるのは「働く人間」に限定されている。つまり、資本の再生産に直接的に関与する人間しか「社会人」とみなされていないのである。ここには深刻な物象化の作用があるが、ひとまず省略して、一般的に学生は資本の再生産と遠い存在だと認識されているらしい。
しかし現実では学生は既に社会資本と密接に関係している。学生には憂鬱な受験戦争が待ち受けているからだ。

私もつい最近まで受験生だった。だから、私自身も受験戦争における憂鬱を体験している。
どうして憂鬱だったのかと言えば、もちろん受験勉強も苦痛でやりたくないと思う一方、それ以上に、この先の人生を決定するであろう入試が、なかば強制されている社会状況が堪らなく苦痛だったからだ。そこでは逃走の余地がない。というのも「受験をしない」という選択肢を選んでも逃げたことにはならない。受験をしても、受験をしなくても、学歴という社会制度そのものは、この先の私たちの人生に強烈に作用する。良いか悪いかはともかく、この「影響」は厳然としてあらゆる学生に及ぶ。結局、学生はどこにも逃げられない。

この時、学生は社会の企みを確信する。この社会は表立っては平等理念を謳いながら、裏では資本を中心にした労働力商品の適正配分のため、人間ひとりひとりに価値をつけて、人間の順番を容赦なく決定する。そういうシステムなのである(資源配分システムがないと回らない)。
そこで社会は、将来の労働力商品を序列付けるために学生たちに受験戦争を行わせる。強制的に受験戦争に駆り出される私たちは、なんとしてでも底辺大学や名の知れない中堅大学に入るまいと死に物狂いで努力する。学生個人ばかりが戦争に動員されるのではない。家族もろとも総力戦体制だ。塾の費用、私立中高の学費…家族は子どもに多額の投資をして、いつの間にか成績は株価と化す。学生は自分の市場価値を維持するために、幼い頃は全く興味もなかった「有名大学」に突如として強烈な関心を抱き出すよう、仕組まれているのだ。

社会哲学者のブルデューは学歴を「文化資本」の中に認めた。文化資本とは経済資本以外の、支配されないための元手である。ブルデューの議論では学歴文化資本は労働力商品の序列化として機能して、社会全体の資本の増殖運動に間接的に貢献する機能を果たし、最終的に階級社会を再生産するという。したがって文化資本を保有すると「社会的に価値」があるとみなされる。当たり前の話である。

受験戦争とは、まさに「文化資本」を巡る椅子取りゲームとして設計されており、生産手段を巡る階級闘争の変形として擬似的に存在している。 この闘争の中では総価値量は決められているから、文化資本の獲得者は価値を搾取して、非獲得者は価値が搾取される。しかも、確定した自己の価値は一般的にはそのまま結婚やら仕事へ、つまり人生へと影響する(と考えられている)。
ここで、もしも、万一に文化資本を獲得できなければ、社会の中で「持たざる者」として確定し、いわゆる「人生詰んだ」と呼ばれる悲惨な状態になってしまうと考えられている。(※考えられているというところが重要)
さらに、この敗北感が、学生の内面にコンプレックスを植え付けて、自己の社会的順番を強く自覚させる烙印として機能し、ルサンチマン生成の契機になる。MARCHだの、日東駒専だの、それらは上部構造に現れた烙印としての文化資本だろう。いわば、学歴が自己を生成している。

畢竟、学生の憂鬱の正体は、文化資本を巡る受験戦争の中にある。学生の送る青春の背後にはつねに、冷酷な資本主義社会が息を潜めて、学生ひとりひとりの価値を品定めするように睨みつけているのだ。

ここでようやく「普通」という概念を導入することができる。
学生たちは「普通になりたい」と叫ぶ。つまり、普通という言葉は肯定的なニュアンスとして使用されている。しかし、本来は普通と言う言葉は無個性だと言えるから、個性に寛容な人権・個人主義といった近代主義の立場からすると、また絶え間ない変化と差異を要求する当の資本主義システムからすると、否定的なニュアンスにならざるをえないはずだ。にもかかわらず普通が良しとされる。これは、下部構造の要請と矛盾するのではないか?

しかし、矛盾ではない。学生は「差異に対する要求」には、とっくの昔に気づいている。しかし、学生を内包する社会状況は、人間に市場価値を付与するための階級闘争の場として在り、言ってみれば「上」と「下」を決める絶え間ない権力闘争の場である。つまり、あらかじめ受験戦争は差異を作るよう命じている。下部構造は確実に差異を要請する。

ここで「普通」を受験産業が規定した「学歴図式」に無理やりあてはめてみると、上でも下でもなく「中」程度に位置する。下は嫌で、上も嫌なのである。つまり「普通になりたい」という言葉が内包しているのは「私たちは身の丈を超えて上を目指しているわけでも、かといって下に堕ちたいわけでもない」という切実な思いである。 

資本主義社会は容赦なく人間の価値を測定して序列をつける。上と下を非常にパワフルな権力で強制的に規定する一方で、普通という言葉はあえて、上と下を拒絶して「中」を選択する。つまり、普通への欲求は、中程度の学歴文化資本に対する切望である。

こうして、この言葉と社会の関係は明瞭になった。
「普通になりたい」とは「上でも下でもなく、資本主義的に差別されない階級に位置したい」であって、そうなると、具体的にはMARCH程度の学歴文化資本の取得が前提になる。
「普通になりたい」とは、例えば「GMARCH程度の学歴を取得したい」であって、それはもっと心情にかかわる言語に言い換えると「ぼくたちは!わたしたちは!身の丈を超えて上を望むわけでも、かといって下に堕ちたくもありません。中でいいんです。これ以上は望みません。ですから闘争はこれ以上は勘弁してください」という、学生の集合意識が叫ぶ、悲痛の意思表明なのだと読み取れる。ある意味、冷たい資本主義社会が裏打ちする声である。下部構造がための声明発表なのである。

学生は無自覚のうちに資本主義によって傷つけられている。笑顔と青春の裏で出血している。
しかし、社会は言う。「これだけ塾に行かせてあげているのだから」「学費は親が出すんでしょ」「社会から奨学金を受けているのだから」「人生どうするの?」「Fランぼっちでいいの?」「結婚できないよ?」「学歴なしで、どうやって就職すんの?」こうして、学生たちの感情の発露は封鎖される。むしろ、作為的な笑顔を保つよう演技が迫られる。

このように、学生はすでに努力という懲罰を強要されている。数年前、東海高校の学生が東大で起こした殺人未遂は学歴資本主義の必然の帰結であろう。
税金、親の金、生涯年収とか、とにかく「金」で、この努力を強制してくる。これでは、もはや立派な負債ではないか。理不尽な借金ではないか。学生はデンジと同じ社会状況にある。もはや、チェンソーを手に持って、あいつを殺し、あいつも殺し、社会を殺し、借金をパァにしてしまった方が早いのではないか。

一般的学生の現在の願いは「普通になること」だ。普通とは、誰からも何からも支配されることもなく、人間であれば「普通に」享受し得るであろう平穏、安心できる生活を送れることを意味する。別の言い方をすれば、階級闘争から離脱した幻想的なユートピア、普通界というアヘン的・ゆるきゃん的・日常的世界である。学歴文化資本的にはGMARCH程度である。

そのために、学生は文化資本を取得するべく戦争に行く。(もちろん、これは倒錯でしかない)  その証拠に、ほとんどの学生は、学問や大学に対する興味なんて1ミリ足りとも持っていない。

最後に補足して、学歴資本主義の観点から絶望的で決定的な事実を導出する。学生は普通になるために文化資本を獲得する行為は、””それが行われる時点で文化資本的階級闘争の再生産であって””、彼ら自身の行動が、受験産業資本をより長寿にしてより健康にして再生産している。すると、この階級闘争は永遠に終わらない。ユートピアもまた実現できない。高田ふーみんの嘲笑は止まらない。近代はやむ無く延長される。

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