見出し画像

20年前と同じ旅はもう出来ない、不可逆的な旅に想うこと。~たぶん1章~

世界を旅することをこよなく愛する人も含めて、2020年の人々の片手にはスマホがある。よって「もっと便利で快適な旅」はこの先経験出来るだろう、しかし「もっと不便な旅」はどうか?無理だ。インターネットに支配された以上、どんなに努力しようとしてもタイムマシンが無い限り絶対経験出来ない。立ち止まって考えるととてつもなく儚く、尊い。

iPhoneが世界に誕生する4年前に初めてアジアを1か月、所謂バックパッカーとして旅をしてそこから世界の色々な国を回った。まだ若かったこともあるが、極めて刺激的だったし、不便だったし、何より不安でワクワクした。当時もインターネットは存在したが、特大サーバーの稼働音が鳴り響く薄暗い部屋で3ドル/15分程度でインターネットを”辛うじて”利用できる「Internet Cafe」などという現代では考えられない施設が町の至るところにあった時代だし、バンコクのカオサンロードでもネパールのカトマンズでも携帯をいじっている人間なんて誰も居なかった。

今はどうかというと、正直スマホの世界の中を旅しているような感覚だ。Instagramで見つけた場所に旅行に行ったら、写真の方が映えちゃって、実際見てみたら「え?…ここ?」ってガッカリするレベルまで来ている。感動しに行ったはずなのに、一番感動したのは会社のトイレで仕事サボってる時にSNSで写真見つけた時だったり。皆でモロッコに来たのにInstagramにどんな格好と髪型で写ろうか(+加工も忘れないわよ。)ということで頭が一杯だ。お洒落なカフェでも観光地でも空港でも、貴方が見ているのはFacebookにLINEに、はじめしゃちょーだ。ホテルの部屋は有難いことに一部の社会主義国家を除いてはWi-Fiまみれ。「旅行って日常を忘れられるからいいよね~」ってその視線の先でお前は何を見ている。

と、こう息巻いた自分も最近はそんな人達とどっこいどっこいである。数年前にキューバに行った時はインターネット回線がなく、それはそれは居心地が悪かったし、何よりも手持無沙汰だった。これは極めて「ヤバイ」状態である。何故ならラオスのパクペンからルアンプラバンまでメコン川を丸二日かけて移動した時は、手元にはあったのは本1冊だけだったにも関わらず、退屈を感じながらもそこそこ過ごせていたからだ。となると今私は間違いなくスマホ依存症である。薬を頼む。

携帯持っていかなければいいじゃん。というご指摘は有難い。やってみる価値はあるなと思いつつも、右を見ても左を見ても膨大な情報を保有する人間で溢れている。どこの宿がいいかな?なんて真顔で聞いてみろい、「Booking.comで探しちゃいなマイブラ(My Bro)」というオチだ。昔は安宿には大抵「情報ノート」があった。あの宿が安いだのバラナシからの鉄道は最上段で寝ろだのあそこには良いマリファナがあるだの、手書きで記されていた。どこまで信じていいのかと思ってはいたが、漠然とした不安も少し和らいだし、何よりその時その国を旅する人々が人種を超えて一種の共同体として存在していた感覚が心地よかった。今はその共同体が解体され、それぞれに存在していて、それぞれが持っている情報も情報源が大して変わらない故に、あまり相互に交わる必要もなく何とも画一的な旅になりつつある感覚がある。

詰まるところ、確実に言えるのは「20年以上前の旅にはもう戻れない、不可逆的な状態」であることは間違いない、ということではなかろうか。何も「旅行」をそこまでシビアに捉えなくてもと思われるかもしれないが、一度「旅」を経験してしまうと、時代と共に標準化されていく世界とSNSで誇張されていく世界を平均的に巡ることに、どうしても物足りなさを感じてしまう。1万年以上前まで遊牧民だった人類が本能的に持つ「旅すること」の本質的な何かが失われているのは間違いないのではないかと、感じている次第です。続き書こう。多分。

今回の想いに至ったキッカケ → ペール・アンデション著『旅の効用』

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?