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「旅行」と「旅」の違い。

『旅の効用』を読んだ結果「20年前と同じ旅は出来ない、不可逆的だ」とそれっぽいことを別記事で書いて、想いがまだ残っているため第2弾に突入。

以前の記事では「旅行」と「旅」の違いを定義せずに書いていたので、改めて。簡単に言えば前者は最終目的地にコミットして、後者はプロセスにコミットするという違いがあると定義して概ね異論はないのではないだろうか。ということを前提として表題の写真(インド西部の都市ジョードプルでの1枚)を見た時、仮に東京からジョードプルに直行便が飛んでいて、タクシーに乗って20分でこの景色に行きついた場合、まさに「ジョードプルへの旅行」をした時、旅行体験ってどんなもんだろうか?という極めてファジーな問いではあるが、どう感じるのだろうか。一方、東京からカルカッタまで飛行機を乗り継いで移動、その後インド国内を陸路で数日間掛けて横断して移動してここに立った場合、つまり「ジョードプルへの旅」をした時、その体験ってどんなもんだろうか?これはどちらが良いとか悪いとかの議論ではなく、その体験がどう経験となり、その人の考え方や物の見方に影響するかは比較して欲しいと常々思っている。

この問いに対しては、社会の中で不便さを排除し効率化することを是として現代を生きている我々は「面倒なので旅行でいい」という思考に行きつくことが多く、これは仕方がないことだと思う。私達の多くは、最初からプロセスありきの「旅」ではなく、最終目的地で時間を過ごすことを目的とした「旅行」を人生体験の中の最初に与えられてしまうからである。しかもそれがそこそこ楽しいとわざわざプロセス(往々にして「旅」は疲れるしトラブルも多く非効率だ)に対して好奇心を持って、そっち(旅)をしようとは中々思えない。

ところが欧米の人は子供の頃から少なくとも「旅行」より「旅」っぽい時間の過ごし方をしている人が多いため、彼らは不便な旅→便利な旅という人生体験をすることが多い。そして圧倒的に彼らの旅行経験が豊富なのは、長い夏休みを取れるからだけでなく、目的がプロセスに点在し無限にあることを知っているからだ。欧米で最も有名なガイドブック「Lonely Planet」を一度見てもらえればわかるが、日本のそれとは情報量も違えば、取り上げている視点や描写が大きく違う。これらは彼らが「旅」という体験を求めており、また文化的にも「旅」が根付いていることの証だと思う。

残念ながら(あえてここでは残念と言う)日本では「旅行」を先に知ってしまうことが多いため、「旅」という選択肢が出て来づらい環境があると思っている。これはセックスも同じで、30分そこらでキスから挿入、発射までして、それでそこそこ満足だ。と固定観念があると、ポリネシアンセックス(1週間かけてセックスに至る行為)をしてみようとは殆どの人は思わないのと同じだ。そこには全く違う世界が待っているのに(知らんけど)

しかし実は日本人も含めて人々が本能的に求めている「旅行」って本当は「旅」なんじゃないかと思う。自分の頭で考えて、話して、移動して、その時その場で自分にしか感じることが出来ない唯一無二の体験をすることを人は求めているはずで、そして改めてそれはどちらが良い悪いという話ではないものの、間違いなく「旅」は人の経験や考え方を豊かにする。なので「旅」をせずに居ることはやはり勿体ないと思う。

しかしこれから「旅行」はもっともっと便利に、画一化され、無駄は排除されていくし、何より20年前の「旅」なんてもう体験することすら不可能な時代の旅情って果たしてあるのか、という儚い感覚にも襲われる。

時代の進歩を巻き戻せない以上、これからの「旅」の中で、過去の体験と今の体験を組み合わせて再構築しながら、新しい「旅」を見つけていくことが、オッサンになりかけている世代以上の「旅」好きには必要なのではないでしょうか。という何か言っているようで何も言っていない抽象的な結論で終えてしまった。また引き続き!

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