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『吉本ばななが友だちの悩みについてこたえる』【1】私版

【1】仲がいい友だちに素敵な恋人ができたり、結婚したり、子どもを産んだり、好きな仕事をしていたり、イキイキとしている姿を心から祝えない時があります。大切な友だちのことを妬んでしまうときは本当に苦しく、罪悪感も感じます。こんなとき、何か対処法はありますか?(20,30代)

この問いと同じ思いを私もしているような気がしたのですが、後半部分であれ?と思いました。
妬むのに、罪悪感も併せて持つところ。
ちなみに、この問いに対する吉本さんの第一声は「妬んだ段階でそもそも友だちではないのでは?」でした。
一見、冷淡そうな返しにも見えそうですが、やはり”妬む”という感情が私も引っかかります。
「羨ましいなぁ」「いいなぁ」と思うことはあっても、妬ましいという感情は働かないかなと思いました。

この「20.30代」の方は、友だちと思っている人を妬んだから、罪悪感を感じたわけです。
自分が好きな人を取られたり、自分の仕事を横取りされたりされたなら、友だちに対して妬みを持ちそうですが、友だち自身の人柄や努力によって幸運が下りてきたなら、羨ましいくらいの感情が妥当な気がします。
つまり、私も「妬んだ段階で友だちではないのでは」に行き着きました。

この項で、注目したのは、吉本さんの「友だち」と「仲間」という定義でした。小学校の時に、仲が良かった子とクラス替えで別のクラスに。休み時間にも会いに行ったその子は「仲間」。でもクラスメイトは授業や行事を一緒にやってお昼も一緒に食べていた「横並びの友だち」。
いつか仲間になれるかもしれないけれど、今は違う。
会社でよく一緒にお昼を食べていたけど、会社を辞めたら会うこともないのは友だちで、連絡をしてしまいたくなるのは仲間だと。
そして、「仲間」は大切だと。

私の中で、「友だち」と「知人」くらいのカテゴライズ、語彙しか持ち合わせていませんでした。
「仲間」>「友だち」という衝撃。
「仲間」というカテゴリーに入る人って、私の中の誰だろうと少し混乱しています。

中学生の頃から「親友」という言葉が恐怖でした。
自分がそう思っていても、相手がそう思っていない可能性に怯えていました。「友だち」という広い範囲なら、まず大丈夫だろうけど、「親友」という距離感の近い可能性を否定されたら、特に思春期には厳しいものです。
思い出しました。私は中高の時、グループが苦手でした。
そのグループの全員と仲良くなりたいわけじゃないしと、さまざまグループに気が合う人がいるみたいな暮らし方をしていました。
なので、特定のグループに属している感覚はありませんでした。
それはそれで、修学旅行のグループ決めの時とか、私はこのグループにいていいのかなとか、いつも心のどこかで感じていました。
自分が主体的にグループを作るという発想もなかった。
学校を卒業してしまえば、特にこれだけ年月が経ってしまえば、結局個々の付き合いに落ち着くのですが、学校時代から苦しそうな人付き合いを避けてきたせいか、強烈な思い出とかそういうことが抜けているようにも感じます。
話しがそれましたが、つまり「親友」という「友だち」以上の狭義な関係性を苦手としていたので、広く「友だち」ととらえる程度で、そうでない例えば仕事関係の人は知人とするくらいしか考えたことがありませんでした。

「仲間」。
新たに降り下りてきたカテゴリーです。
でも吉本さんが言いたいことはよくわかります。

ただ、思うのは関係性に名前をつけたりはっきりさせなくても、心はなんとなくわかっている。そしてそれを口に出したりしない方がいいということ。
口に出したりすると、なんとなくそれに縛られてしまうことが多いような気がします。

ああ、支離滅裂な文章。
全部で36項目もありました・・・。
続けられるのか、私!!


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