透明人間

心が触れないというのはどういう事か。
最近そんな事を考えていました。

人間関係のトラブルにおいて距離が近すぎる事がトラブルの原因などとよく言われます。
しかしながら本質的な問題は距離ではないというのが僕の主張です。
距離が近づいただけでやたらと問題が起こるのは内面的な問題や構造的な問題があるのではないかと考えています。
今回は精神的接触を身体的接触に喩える事で「心が触れない」という現象について話していきたいと思います。

【健全な関係(心が触れる関係)】 
精神的に健全な人というのは精神に実体を有しています。
実体がある物と実体がある物であれば、接触するという事が可能です。
そして「あ、いまぶつかった」という事が分かる。
触覚に刺激が加わる事で相手の実体を感じる事ができる。
仮に骨と骨のように硬い部位同士がぶつかればゴツンと分かりやすく接触した音がする。

そして実体のある物同士が抱擁をするのであれば、身体と身体が密着してお互いの体温が自分自身の中に浸透してくる。
仮に衣服を着ていないお互いに裸の状態であれば、より相手と触れているという感触が強まります。
衣服を介さない接触により相手の皮膚の感触まで感じられるでしょう。

そして性行為は実体がある者にとって最も深く相手と繋がる事ができる手段です。
凸と凹が交わる事により一つになるという事です。
衣服を着るという文化の中で育つ人間たちにとって生殖器というのは秘部と言えるでしょう。
性行為というのは普段決して見せる事のない秘部を通じてお互いが繋がるという事です。
そしてその秘部には無意識が眠っています。
自分が知らない自分、あるいは相手が知らない自分が在るのです。

無意識と無意識の繋がりというのはお互いの禁断領域に踏み込むという事であり、そこには覚悟が必要になってくるでしょう。
一定の健全な精神の持ち主同士であっても多少の恥ずかしさや居心地の悪い感情が生じる事もごく自然な事でしょう。
しかしながら精神に実体を有する者同士の性行為というのはそのネガティブな感情を踏まえた上でその壁を乗り越えるといういわば儀式のような側面があります。

これは実体がある者に課せられた使命のようなものです。
実体があるという事は喜怒哀楽があるという事です。
傷つくという事は実体があるからこそ生じるものです。
逆に言うと傷つかない為にはどうしたら良いのかというと、実体を放棄する事です。

【不健全な関係(心が触れない関係)】
精神的に不健全な人というのは精神に実体を有していません。
それはまるで透明人間のような状態と言えるでしょう。
透明であれば誰かに触れても触れたという実感がない。
それはとてもとても寂しい事のように思えます。

しかしながら同時に透明であれば殴られても蹴られても刺されてもダメージを受けないのです。
いや、正確には殴る事も蹴る事も刺す事も不可能であると言えます。
何故なら透明である限りはそもそも触れる事すらもできないからです。
人が透明になろうとするのは傷付かない為であると言えるでしょう。

透明人間は"触れる"という事ができません。
しかしながら人と重なり合う事はできます。
というのも透明だからこそ人の中に入り込む事はできるのです。
本来であれば実体があるので物理的には不可能な事ができるという事です。
接触できないというのは同時に入り込む事ができるという事です。
"幽霊に取り憑かれる"という現象がありますが、透明人間に唯一できる事は取り憑くという事です。

そしてこれが依存の正体です。
繋がる事はできないが、重なり合う事ができる。
特定の誰かに取り憑いてその人に一体化しようとするのです。
透明人間には確固たる自分というものはありません。
無いからこそ在るものに取り憑く事で生きようとするのです。

しかし彼らは元々は実体のある人間だったので、透明人間であることを自覚する事を嫌がります。
この"取り憑く"というスタイルを何が何でもやめられないのは、透明であると感じない為でしょう。
つまり誰かに取り憑く事で他人の価値を自分のモノとして生きていこうとしているという事です。
毎度毎度これが"自分だ"と宿主を変えて生きていくのです。
そしてそれは無意識に行われているのです。

彼らは取り憑いている間だけは一見すると正常な精神性を維持する事ができています。
そんな彼らにとっての緊急事態は誰にも取り憑いていない時間です。
誰かに取り憑く事を当たり前にしているので、誰にも取り憑いていない状態というのは自身が透明であることを感じざるを得なくなるため耐え難い苦痛が生じるでしょう。
本来であれば透明でいる事は非常に辛い事だからです。

彼らが透明人間として偽りの幸せを生きる方法として依存以外にもう一つ手段があります。
それは透明人間同士で精神に実体があるかのように演じてごっこ遊びをするという事です。
優しいフリをする、優しさに感謝をするフリをする、己の感情に後付けで理由を付けてストーリーにする。
悲劇のヒロインになったり、誰かを救うヒーローになる事もできる。
何にでもなれるのは透明だからこそでしょう。
イリュージョンの世界に没頭するのは透明人間が表面上の人間らしさを維持して楽しくない人生を楽しいと思い込みながら生き抜く為に最も有効な方法と言えるでしょう。

透明人間は無意識に操られている。
自動操縦システムのようなものによって透明人間という現象に則って稼働する。
したがって時に透明人間同士というのは異常に相性が良い。
お互いの自動操縦システムが絶妙にフィットするのです。
見たいものだけを見て見たくないものは見ないという無意識に抱えた暗黙の了解を相互に持ち合わせる者同士が共鳴し、閉鎖的で平和でそれでいて空虚な透明人間同士のコミュニティを形成するのです。

しかしながら先述したように彼らは自身が透明であると気が付く事を異様に嫌います。
透明人間である自分に気がつくとその人は透明でいる事を維持できなくなります。
実体のある他者から借りたアイデンティティであったり、同類の透明人間コミュニティに依存して培った偽物のアイデンティティやキャラクターが崩壊してしまうのです。
自分が透明である事、そして無力である事に気がつくのです。

その為、自身と同様の透明人間仲間の透明ではない部分が露呈する事も異様に嫌うのです。
透明ではない部分を心の底では拒絶しながらもあくまで意識上はお互いに透明ではないという認識のもと関わりたいのです。
自分が透明である事が発覚したらイリュージョンの世界が終了してしまうのです。
したがって透明人間は同じ透明人間の擬似アイデンティによる化けの皮が剥がれた瞬間、相手をいとも容易く見捨てるでしょう。

それは等身大の自分が映し出される事に怯えているからです。
相手が透明なまま等身大の頼りない自分を放棄している限りにおいては自分自身も透明でいやすいのです。
ところが相手の擬似アイデンティティが崩壊して透明ではいられなくなりドロドロしたネガティブな感情を伴う実体のある人間の正体が出た途端に自分の内側にある同じようなドロドロしたネガティブな感情を想起して逃げ出したくなるのです。
つまり思い出したくない都合の悪い自分の一面を見せられる事を無意識で避けている同族嫌悪の現れなのです。

彼らはお互いに透明でないと人間関係が成立しない。
しかしながらその上でお互いに実体がある(=透明ではない)という共通認識のもとに関わり、あくまでも自分たちには確かな実体があるというイリュージョンに頼りない自分を支えてもらおうとしている状態なのです。
精神的に実体のある人間であるという健全性をアピールしつつも、実際には実体のある人間になる事を恐れているし、実体のある人間を恐れている。
だからこそ透明を維持したまま実体があるフリをしようとするのです。

したがって透明人間同士というのはあたかも健全な関係性であるかのように性行為を楽しむ事もできます。
身体的接触を通じて心の実体の無さを無視しようとするのです。
また性的刺激を通じて発生するドーパミンというのは透明人間にとっては都合の良い脳内物質です。
ドーパミンに依存する事で透明人間である自分と向き合う事から逃れようとするのです。

そして透明人間は精神的に実体のある人間に対して恐れを覚えます。
なぜなら実体がある相手と関わる事で自分自身の実体を感じざるを得なくなるからです。
透明人間は正確には透明になろうとしている人と言えます。
実体のある相手と関わる事によってその相手に映し出される自分自身の実体に対して激しい嫌悪や恐怖を感じてしまうのです。

そして透明人間は実体のある相手を侵入的な人間と解釈して拒絶して酷い場合には攻撃をしてしまうのです。
しかし実際には侵入されているのではなく、相手の実体そのものに対して脅威を感じているという事です。
透明でない状態においては自他境界(バウンダリーなどとも言います)が弱い為に容易く他人から影響を受けてしまう為にもはや実体のある人間の存在そのものが脅威になり得るという事です。

これは別の視点で見るとただ単に相手を攻撃しているのではなく、相手という鏡を見てそこに映し出される自分を見て失望して鏡そのもの(相手)を割る事で都合の悪い自分を消滅させるという事に近いのです。
彼らは鏡を見たくない、鏡に映る自分を見たくない、つまり自分自身を見る事を放棄しているのです。
透明でいれば傷つくリスクは無くなるし、同じような透明な人間と関わっていれば交わる事もないので傷つく事も自分自身の見たくない部分が映し出される事もないのです。

この辺りは過去にこちらの記事で書いた内容にも非常に近いです。

過去の僕の記事を読んできた人の中で勘の鋭い人は気づいているかもしれませんが、今回の「透明人間」という言葉は解離した人、あるいは自己喪失した人という風にも言い換えられるでしょう。
しかし今回の記事では単なる現象としてというよりも実際に自分自身が透明人間になる事を想像して書いてみたら面白いのではないか?という視点で書いてみました。
※なお解離についてはこちらの記事でも書いています。

心が触れない人というのはまさに透明であり、もの凄く近くにいるのに触れる事さえも叶わない。
身体的に触れる事が叶ったとしても、むしろ精神的には触れられないという事がますます露呈するばかり。
そして精神的に触れれば触れるほど逆に身体的には触れられない。
身体と精神が一致していないというような自己矛盾を感じます。
(今回は詳しく触れませんが、このような身体と精神の不一致状態により透明人間たちは自律神経や免疫系などにトラブルを起こしやすいのではないか?という仮説も自分の中にあります。)

何はともあれ近くにいるのに触れる事ができないというのは何とも悲しい話です。
いっそ初めから近くにいなければいいのにとすら思えてきます。


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