社会現象としての解離〜社会的解離〜

今回の記事では解離を社会現象として捉えてみるという記事になります。
※心理学的な意味での解離については↓の記事で概要を載せています。

近年ではSNS文化が広がり、誰でも自由に発信できる社会になりました。
しかしながらSNSでの投稿が炎上したり、そもそもコンプライアンスが昔に比べてかなり厳しくなっている状態もあり、SNSでの発言においても人からどう見られるかという事がより重要視される流れが生じています。
そしてこの流れはバーチャルの世界だけでなく、実際の対人関係においても影響が及んでいます。自分がどう見られたいかという生存戦略の方が重要になってきてしまい、自分がどうしたいかを見失いやすい社会と言えるでしょう。

テレビ時代においてはそもそもの選択肢があまり多くない為に多くの国民が共通の対象を好きになるという事が当たり前のようにあり、ある種の一体感がありました。
ところがインターネットが普及してSNSなどが普及すると各々が自分の好きなものを持ち、いわゆるオタク的な世界を持つ事に対して社会が肯定的になってきました。
多様性が大切であると叫ばれるのもこの各々の好きな領域を尊重するという流れに大いに関係しているでしょう。

しかしながらこの流れによってたまたま知り合った相手が自分と共通の領域(趣味や特技など)を持つ確率というのは下がったように思います。
特に音楽文化に関してはこれは顕著ではないでしょうか。
サブスクリプションサービスの普及で無数の音楽に誰もが気軽にアクセスできるようになった事でより音楽がファストなものになりました。
ファストフードにファストファッション、そしてその次がファストミュージックだと僕は考えています。

食べ物には賞味期限があります。
服も古着文化などがあるとはいえ大昔の服を綺麗な状態で手に入れる事は困難です。
しかし音楽に関してはデジタルデータとしていつまでも残っているので、現代人は50年以上前の音楽にも気軽にアクセスできます。
つまり選択肢は増える一方という事になります。
100年経つとデータが消失するとかそういう仕組みでもない限り音楽というのは増え続けるのです。
その時その瞬間にしか存在しないものは生演奏だけなのです。

その為、テレビ時代のように好きなアーティストが誰であるかを話したところで相手が名前すらも知らないという確率が高くなっていると言えるでしょう。
選択肢があまりにも無数に増えすぎているのです。
ただしその代わりとしてテレビ時代にはまず知る事ができなかったであろう異国のマイナーなアーティストなどにたどり着ける可能性が上がった事などは音楽のファスト化の大きなメリットとして挙げられます。

このようにインターネット社会によって多様な情報や文化などに触れやすくなった事で現代人は他者との共通項が見出す事が難しくなってしまったように思います。
そしてこの共通項が減ってきた事に加えて、先述した周りの目を気にする流れが進んできている事も相まって多くの人たちの間で数少ない共通項のある人たち同士でだけコミュニケーションを取るという流れが発生しているのではないかと考えています。

共通項のある人の数自体は少なくなったものの、インターネットの世界を通じた出会いであれば同じ感覚を共有できる仲間に出会いやすくなっているのが今の社会です。
無理に共通項のない人と関わろうとしなくとも気軽に共通項のある仲間と繋がれるファストコミュニケーションの時代になってきているのです。
情報化社会の影響でジャンルを問わず無数の情報が流れてくるようになった事で一見多様性が尊重される流れが進んでいるようにも思えるのですが、実際には似た者同士としか関わらず少なくとも表面上は対人関係に困らない時代になった事で異文化交流的なコミュニケーションが減少している人たちも非常に多いように感じています。

今の社会というのは自分とは共通項のない全く違った人たちとのコミュニケーションを楽しめる人たちにとっては本当の意味で多様性を尊重できる環境になってきているように思います。
しかしながらそれと同時に自分と共通項のある他者としかコミュニケーションが取れない人たちが共通項のない人たちと関わる機会というのも失われてしまったように思います。
これによってコミュニケーション強者とコミュニケーション弱者の差が大きく開き始めているのではないかと僕は考えています。

近年ではイジメなどを理由に不登校になった若者がネットゲームで友人を作る事で精神的に救われるというような話もよく耳にするようになりました。
確かにそれ自体は良い事なのですが、同時に対面で深く関われるような現実世界においての友人を無理に作らなくても、ネット社会での友人だけで満たされる事ができるというような流れも生まれているのではないでしょうか。

ネットゲームの友人というのはそのゲームでだけで繋がっている友人です。
もちろんプライベートな話をしたければ話をする場合もあるとは思いますが、対面で関わるわけではないのでイジメにあったり不登校になっているなどの自分にとって触れたくない事は無理に開示する必要もありません。
インターネットを使えば、見せたくない部分を見せないという事は簡単な事です。
つまり言い方は少し悪いかもしれませんが、都合の良い部分だけで繋がれるという事です。

この「都合の良い部分だけ繋がれる」という感覚がまさに今の時代を示しています。
一人の人間に対して様々な要素があり、様々な感情があるという事はごく普通の事です。
しかしそんな中で自分の一部分だけで繋がるというのが今回の記事のテーマである社会的解離という話に繋がってくるのです。

これは簡単に言うと自分の思う良い形で他者と繋がる為に自分の一部だけを切り取って関わるという生存戦略です。
自分の全てを見せる事は嫌われるリスクがありますし、全てを見せて嫌われた方が傷つきはより大きくなります。
ゲームで繋がった仲間であればゲームの話だけをすればいい、好きなアーティストで繋がった仲間であればそのアーティストの話だけをすればいい。
学校の友人、習い事の友人、家族、恋人など相手によって自分を使い分けるのです。

特にコミュニティが複数ある場合にはそのコミュニティごとに自分を使い分けるという事です。
これは単に演技をして自分をよく見せようとするというような場合もありますが、必ずしもそうとは限りません。
自分の一部分だけを見せて一部分は見せない事で演技をしたり嘘をついているという感覚なく生きられるのです。
確かに全部出してはいないけれども嘘をついてはいないわけです。
嘘をついていれば違和感が露呈しやすいのですが、嘘をついているのとは微妙に違うので周りからも違和感を持たれにくいですし、本人も極端に苦しくなるような事は少ないでしょう。

ここで一つ勘違いして欲しくないのは、使い分ける事自体が絶対悪であるわけではないという事です。
仮に使い分けが全くできなければそれはそれでコミュニケーションのスタイルとしてかなり問題があるといえるでしょう。
今回この記事で問題にしたいのは、この自分の一部分を切り取って一部分を無視したコミュニケーションが極端になると危険であるという事です。

ここで大切になってくるのがアイデンティティの話になってきます。
確固たるアイデンティティ(自己同一性)がある状態というのは自分が自分であるという感覚が強固である様だと「アイデンティティの統合」という記事で書きました。
これがどういう事かというと、誰と話していても何をしていても何処にいてもどんな状況であっても自分は自分であるという感覚を失わないという事です。

アイデンティティの直訳である自己同一性という言葉の「同一性」という言葉にだけ着目して、多面性がある事は同一性がないと解釈する人がいますが実際には違います。
多様な自分を統合してどれも自分であると感じられる土台がある事がここで言う同一性の意味でしょう。
つまり多面性があればあるほどアイデンティティの有無が重要になるという事です。

アイデンティティのある人にとっては職場の人たちといる自分もゲーム仲間といる自分も好きなアーティストのファン同士のコミュニティにいる自分も家族といる自分も恋人といる自分も全て自分であると感じられるのです。
泣いている時も怒っている時も笑っている時も自分が自分であると感じられるのです。
家にいる時も出かけている時も旅行で海外にいる時も外食で高級料理のお店に行った時も自分が自分であると感じられるのです。


しかしながら今の日本社会というのは先述した通り、周りの目を気にする事が過剰に求められる事が当たり前になってしまっています。
このような社会を生きる人々は自分が何者であるか、自分が何をしたいのかという事を曖昧にさせられてしまいます。
そしてそうやって自分が分からなくなったアイデンティティの弱い人たちが自分の一部を切り離して生きるという事でますますアイデンティティを喪失していくのです。

自分の一部分だけを見せて生きていくというのは逆の言い方をすれば、自分の何処かしらの一部分については存在を無視しているとも捉えられます。
人はどう見られるかを気にすると大抵の場合は自分にとって都合の悪い事や自分の弱い部分が露呈しないように振る舞いがちになります。
そしてそれによって自分が周りの人たちに見せたい自分と周りに見せていない弱い自分や都合の悪い自分とで人格がかけ離れていくのです。

僕はこのような一連の現象も解離の一種ではないかと捉えています。
解離というと解離性障害などの病のイメージが強くあまり一般的ではないような印象を与えてしまいがちになりますが、このようなキャラの使い分け程度のレベルであれば多くの人にも思い当たる節があるのではないでしょうか。
このような比較的誰にでも起こるレベルの話を軽い解離として捉えられないか、あるいは解離とまでは呼べないまでも解離の予兆くらいには解釈できるのではないかと個人的には考えています。

僕は今の社会においてこのような軽い解離状態が多くの人たちに蔓延してそれが慢性化している状態は一種の社会現象と言えるのではないかとそう捉えています。
そしてこのような現象を社会的解離として心理学的側面だけではなく社会学的に捉えていく事が必要であると考えています。
心理的な問題と社会的な問題というのは切っても切れない関係にあるのです。

この社会的解離の非常に厄介なところは、アイデンティティが弱い人たちが社会的解離に依存して社会に適応しようとしてそれによってさらにアイデンティティを喪失してますます社会的解離が進行するという悪循環にハマりやすい事にあります。
過去の記事でも書いた通り、解離というのはある種の麻薬に近い作用があります。
解離によって人は自分という存在を他人事にする事で痛みを受けにくくなります。
しかしながらそれは同時に解離なしでは生きている事が非常に辛くなってしまうという事でもあります。
つまり解離に依存しないと生きられなくなってしまうという事です。

またこの社会的解離というのは心理的な問題でもありつつ社会現象でもあるので、社会という強大なシステムが丸ごと変化しない限りこの流れを簡単には止められないという事も非常にネックになってくるでしょう。
集団心理的な作用などもあり、大多数の人たちがこの社会的解離状態に陥ってしまう事でますますこの社会的解離なスタイルが広がっていくという悪循環に陥るでしょう。
社会的解離が蔓延してそれが多数派になってしまえば、もはや社会的解離スタイルはその時代の主流のスタイルで当たり前だ、だから何も問題がないという風な流れがますます進むのではないでしょうか。

(社会的)解離というのは平たく言えば傷ついて悲哀を感じる事に対しての回避と言えるでしょう。
アイデンティティのある人はポジティブな感情だけではなくてネガティブな感情も含めて全て自分であるという感覚を持っています。
その為、ネガティブな感情に対してもしっかりと向き合う事ができます。
しかし社会的解離スタイルの人たちというのは傷つくリスクを嫌います。
そして万が一傷ついた場合には解離によって傷ついた自分を切り離す事で痛みや悲しみを無かった事にしてしまうのです。
痛みや悲しみを感じる事を拒絶してしまうのです。

彼らは何処のコミュニティに属していても触れているのはそのコミュニティにおいて受容されやすい一部分だけなので、丸ごと受容されるという感覚を喪失していきます。
丸ごと自分を受容するという自己受容的な感覚が育っていない状態でコミュニティごとに自分の一部分だけを切り離してキャラを使い分ける事で自分を見失う事になるのです。

またこの傾向というのはセックスにも現れてきます。
親しい人とはセックスするのが怖いが、セックスフレンドとはむしろ開放的になって過激なセックスをするという人がいます。
お互いにセックスだけで繋がっているので、セックスにおいては非常に開放的で自由に自分を出せるため過激なセックスなども恥ずかしくなくできる。
しかし何度も会って話をした事があるような親しい人とはセックスするのが怖くなるのです。
これも一種のキャラの使い分けであり、アイデンティティの統合不全の弊害と言えるでしょう。
※この辺りは過去に書いたこちらの記事でも書いています。


社会的解離の人たちというのは、心の奥底では自分を丸ごと受け入れてもらう事に対して飢えています。
自分の一部分だけを受け入れてもらえる環境の中で何とか生きてきたものの心の奥底では愛情飢餓のようなものを抱えています。
しかし同時に丸ごと受け入れてほしいという欲求を外に出してもし否定や拒絶をされてしまったら生きていけないという気持ちも非常に強いのです。

若者が恋愛に対して消極的になっているという話もよく耳にしますが、これも社会的解離に依存する事で何とか自分の精神を平和に維持できているからなのでしょう。
わざわざ傷つくリスクを負わなくても何とか(表面上は)楽しく生きられているからです。
コストパフォーマンスやタイムパフォーマンスの悪い恋愛に時間や労力を割かずとも今は気軽に無料で楽しめるファストなコンテンツが無数にあります。

ファストなコンテンツが無かった時代においてはそもそもする事がそんなにないので、恋愛ファーストになる人たちが今よりもずっと多かったように思います。
そして今の時代よりも恋愛に重きを置かれていた時代において精神的に問題を抱えている人たちは恋愛においていわゆるメンヘラ的な行動を取ってトラブルを起こしてきました。
それを良い事だとは思いません。
しかしながら多くの人たちが心を病んでいるにも関わらず問題が露呈しない今の解離的社会よりも実は健康だったのではないかとも思えるのです。

メンヘラ性が露呈する時というのは人々の根っこにある愛情飢餓が表出している時です。
ところが解離的社会においては彼らが本当に求めている愛情の代替品としてインターネット上のコンテンツであったり、狭い範囲の部分承認だけで成立する閉鎖的なコミュニティが存在しています。
人々がローリスクでローリターンなものに依存する事で失敗をするリスクを負わない、そして失敗をしないので特に何かを学ぶ事もなく波風を立てる事もなく緩やかに衰退していくのが解離的社会の恐ろしさです。

このような現象の背景としては先述したメンヘラという言葉の登場にも表れています。
愛情飢餓に囚われて精神を拗らせて感情的になったり問題行動を起こす人たちをメンヘラと揶揄する流れがインターネット上で頻繁に見られるようになりました。

SNSがなかった時代においてはいわゆるメンヘラ的な言動というのは親しい間柄や距離の近い間柄でしか露呈せず、それが不特定多数の人たちに知られるというような事はあり得なかったはずですが、そういう言動やそういう言動に対しての否定的な見解について目にする機会も増えているのではないでしょうか。
出回っている情報量が格段に増えた事で良い情報に出会えるチャンスも増えたかもしれませんが、あまり触れない方が良いような悪い情報も増えているのも事実でしょう。

それ以外にも陰キャであるとかチー牛であるとか意識高い系などの属性を表す言葉を使って揶揄するような流れがインターネットを介して広がり、イジリや自虐ネタの材料として浸透しています。
※自虐ネタのリスクについては過去にこちらの記事でも書いていますので、よかったらこちらも読んでみてください。

ネット社会というのは不特定多数に見られるという特性上、何かを発言しても揶揄されたり馬鹿にされたり絡まれたり炎上したりするリスクを孕んでいます。
インターネットが無ければ届くことの無かった一個人の言葉が多くの人に届くようになった事で一部のアイデンティティが弱く自他境界の崩れた人たちがその言葉に過剰反応したりしています。
そのような流れもあって人々はますます周りの目を過剰に気にするようになっていると言えるでしょう。

しかしながらインターネットの厄介なところは「何も思っていない人」が可視化されにくいという事です。
つまり実際には何も反応しない人がほとんどであるにも関わらず、極端に否定的な意見だけが可視化されてしまう事で自分が発言する事に対して過剰に責任やプレッシャーを感じる事が増えているのではないかと考えられます。
もはや社会的解離というのは今の社会の人々にとって欠かせない生存戦略になりつつあるのかもしれません。

解離によって人格は以下の二つに切り離されると「解離の概要」でも書きました。
•ANP(Apparently Normal Part Of Personality)
あたかも正常な人格部分
•EP(Emotional Part Of Personality)
情動的な人格部分

解離的なコミュニティにおいて解離的な人たちが見せるキャラクターというのはこのANPがその人本来の人格のごく一部しか表現できないのが特徴です。
この「あたかも正常な〜」という印象は周りからの印象という事です。
正常の範囲というのは暗黙の了解的に所属する社会やコミュニティによってざっくりと決められています。
そして閉鎖的かつ解離的なコミュニティにおいては正常の範囲が非常に狭いのです。

解離的なコミュニティを作り出すのはアイデンティティを喪失した人たちです。
アイデンティティを喪失した人たちというのは、他者との違いに対して楽しむよりも困惑する事が多くなります。
その為、似た者同士の閉鎖的なコミュニティを好みます。
多様性とは名ばかりで彼らは何処か排他的なところがあるように見受けられます。
彼らは多様性という言葉を盾にして自分たちが解離的コミュニティに依存する権利を尊重してほしいと思っていますが、本心では決して自分たちとは違う多様な人たちを受容したり理解したり触れ合いたいとは思っていないのです。

彼らは自分たちが所属しているのとは別の解離的コミュニティをわざわざ否定しようとはしません。
何故なら自分が否定する事で自分たちの解離的コミュニティを否定されたくないからです。
表面的には多様性の尊重のようにも見えるのですが、ただ単に自分たちが否定されて傷つく事を回避する事が重要なだけと言えるでしょう。

否定しなければ否定されないというある種の暗黙の了解の元にお互いの脆くて弱い自己愛を守り続けるために便宜上多様性を尊重するというのが解離的社会の人たちの特徴でしょう。
しかしながら実際には解離的社会の人たちというのは自分というたった一人の人間の多様性すらも受容できていないのが現実です。
自分に対しての受容が極めて限定的なのです。
そして自己受容が限定的であると、他者との関わりも限定的になってくるのです。
少し辛辣な言い方をすると他人をカテゴリー分けして役割分担的に捉えて損得感情で繋がっていると考える事もできるでしょう。

このような解離的社会におけるコミュニケーションというものは最低限の信用はあるが、信頼はないというようなそんな状態に見えてなりません。
※信用と信頼については過去の記事でも書いています。

解離的社会の人たちというのは自分を守るために他者に対して適度に優しくしているが、どこかに異様な冷たさを感じさせます。
損得に非常に敏感なように思います。
解離的社会においてはいわゆる不良や非行少年などは減少傾向にありますが、これも怒られたりリスクを負うことに対して抵抗感を示す人が多いからでしょう。

損だろうが得だろうが関係ない、自分はこれがやりたいからやるんだというような強い自己主張を示す人というのは解離的社会においては少なくなります。
その為、解離的社会においては自己主張や主体性の強い人たちというのは空気が読めない面倒臭い人であるとか自分たちの構築した自分たちが傷つかない平和な解離的コミュニティを破壊する危険人物として捉えられる事になるのです。

しかしながらこのような解離的社会に染まらないパワフルでアイデンティティの強い人たちがこの解離的社会に対して行動を起こしていく事は非常に重要です。
もはや社会現象としての解離というものはこれからも進んでいく事は止まらない事でしょう。
しかしそれでも解離的ではない心が触れ合うコミュニケーションがほんのわずかでも世の中に広がるように行動を起こしたいと自分自身でも思っています。

新たに解離繋がりで「同性愛者の解離」という記事を書きました。
こちらは今回の記事で書いたような(社会的)解離が特に同性愛者には起こりやすいのではないか?という記事になっています。


気に入ってくれた方はサポートお願いします。