付加価値依存症者にとっての自己実現とは

※先にこちらの記事をお読みください。

付加価値依存症について立て続けに2つ記事を書かせていただきました。
前回の「付加価値依存症だった過去」の記事でも書いたように、今回は付加価値依存症者と自己実現者の違いについて書いてみたいと思います。
所々既に書いた記事と重複する箇所がありますが、ご了承ください。

僕が付加価値依存症の存在に気づいたのは、今年の春〜夏頃でした。
身近にいる人たちで高い能力を持っていながら自分に自信を持っていない人たちがたくさんいる事に気がついた事がキッカケでした。
僕は当時、優れた能力や才能を持っていたりストイックに努力できる人に対して僕は強い尊敬の念を感じていました。
それはおそらく彼らが自己実現に向かって努力している立派な人だと認識したからでしょう。

しかし実情は違いました。
彼らには余裕が感じられず、焦燥感や強迫観念のようなものが強く感じられました。
焦燥感や強迫観念に駆られながら努力をして向上し続ける事をただ単に「ストイック」の一言で済ます事は僕にはできませんでした。
彼らは痛々しいくらいにメンタルが脆弱で極端にネガティブで、失敗すれば自分には価値がないという崖っぷちに生きていました。
このような人たちはストイックに自己実現に向かう人とは違った人間であると気がついたのです。

キツい言い方を覚悟で言うのであれば、彼らは器がとても小さく他人を許す事ができないように感じられました。
ですが、これはある種当たり前でしょう。
何故ならば本心から自分を許せないのに本心から他人を許す事ができないからです。
彼らは、肩の力を抜いて仕事をしたり趣味を楽しめている人や心の底からやりたい事をやれている自己実現者に対しての強い妬みがあります。
おそらく彼らは自分に付加価値を付ける事に対して必死すぎるあまり、付加価値の多い人や付加価値に囚われずに気楽に生きられる人の価値を認めたくないのでしょう。
そのような人たちの価値を認める事で自分の存在価値がなくなってしまうような恐怖に怯えているのでしょう。

妬みというのは自分と他人を比較する事で生まれてくる感情です。
比較する事自体が絶対悪とは思いませんが、比較しては妬みの気持ちを膨れ上がらせていく事が精神衛生上良くない事だけは確かでしょう。
そして厄介な事に彼ら自身も妬みの感情が良くないという事は理解しているので、その妬みを抑圧しようとしてしまうのです。
しかし感情というのは抑圧する事で新鮮でなくなって消費期限が切れてしまうのです。
消費期限が切れるというのはつまり腐ってしまうという事です。
初めは些細な負の感情であったとしても蓄積して腐らせていく事で極端に歪んだ負のエネルギーに変わってしまうのです。
これが感情を抑圧する事の恐ろしさでしょう。

例えば負のエネルギーが100%を超えると爆発するとして、健康的なメンタリティの人間に関しては負のエネルギーは0%がスタート地点です。
ところが、付加価値依存症の人は愛情飢餓とそれによって確立された付加価値依存的な生き方によって慢性的に負のエネルギーがあって常に80%ほどの負のエネルギーを溜めた状態が当たり前になっています。
そこへ20%の負のエネルギーが加わったとすると、健康的なメンタリティな人はまだ余裕が80%もあるので耐えられますが元々80%の負のエネルギーが蓄積された人というのは怒りを爆発するかたちになります。

そして厄介な事に怒りというのは、心の奥底に秘めた不安や悲しみなどの代わりに瞬発的に放出される感情です。
それはつまり負のエネルギーの上澄みだけしか吐き出せないという事を意味します。
これが怒りが心理学において「二次感情」と呼ばれる理由でしょう。

僕はこれをヤカンのお湯が沸騰して溢れる様に例えると分かりやすいのかなと思っています。
基本的に沸騰してお湯が溢れたとしてもお湯の全てが溢れ出るという事はなく、ヤカンに収まりきらなかった分だけが溢れるという形になります。
負のエネルギーの放出に関しても同じ事が言えるのではないでしょうか。
この辺りについてはまた別の記事で詳しく書いてみたいなと思います。

そしてさらに厄介な事に彼らはこのように怒りを放出した後に強い罪悪感を覚えます。
怒りを出してスッキリするという方向にはならず、後味の悪さを感じてしまうのです。
彼らは本心では人と仲良くしたり尊重されたいという気持ちがありますが、自分の強すぎるネガティブな感情が関係性を破綻させたり人から嫌われるリスクがある事もよく理解しています。
負の感情を出す事自体はプラスの面もあるのですが、この罪悪感によって彼らはますます抑圧的になっていきます。
また問題を起こしたら今度こそ嫌われる、もうこんな思いをしたくないというような恐怖からさらに感情を抑圧してしまうのです。
そしてまた消費期限の切れた感情が悪さをする。
これは恐ろしい悪循環です。

そしてこの仕組みというのは当事者以外にはなかなか理解されません。
何故なら彼らは側から見れば、たった20%の負のエネルギーにすら耐えられない器が小さい人間という風に見えてしまうからです。
何も知らない人からすれば彼らがまさか常に80%も負のエネルギーを溜め込んでいるなんて想像もできないでしょう。
その80%の負のエネルギーを生み出している材料は幼少期の愛情飢餓とそれによって生まれた付加価値依存的な生き方ですが、それは周りの人が知る事ではないからです。

さて少し付加価値依存症の話から若干境界性パーソナリティ的な話にまで広がっていったような気もしていますが、ここでいったん話を戻します。
付加価値依存症者と自己実現者の話です。
僕は先程書いたように付加価値依存症の人が自己実現を目指している人だと勘違いしてしまいました。
しかし何故このような勘違いが起きたのでしょうか。
それは僕自身の生き方が付加価値依存的な生き方と自己実現的な生き方を混在させたものであった事がまず第一にあります。
つまり自分自身も自己実現的な生き方ができていると思ってはいたもののできていなかった為に自己実現者を見抜けなかったという事でしょう。

そしてもう一つの理由として、付加価値依存症者は欲求の順番がおかしくなっている事が挙げられます。
どういう事かと言いますと、本来であれば自己実現欲求というのは自尊欲求(承認欲求)の上に位置するものであるはずなのに付加価値依存症者の場合はその2つの欲求が逆になっているという事です。
つまり人から認められる為に自己実現をするという誤った認識があるという事になります。
例えば、自分がなりたいと心の底から思ったから医者になるのは自己実現ですが、親に言われたからとか世間体が良いからなどの理由で医者になったのであればそれは承認される為に行った偽物の自己実現という事になります。

この現象というのは根っこに愛情飢餓がある人特有のものであると考えられます。
つまり、親に尊重されなかった、ああしろこうしろと命令されてきた、本心を抑圧させられてきたという事でしょう。
また、世間体など周りの目を気にするように教育された事も大いに関係しているでしょう。
人間は他人本位でいる事を強いられる内に自分の軸を失っていくのです。
この現象が世間体ばかりを気にする日本社会で起こりやすいのは容易に想像がつくでしょう。

このような付加価値依存症者による承認を得る為の偽物の自己実現は現在日本社会でかなり蔓延しているのではないかと考えています。
自分の意思がない、本当は何がしたいのか分からない、このような人たちが多いのはおそらく承認される為に自己実現をしなければならないという自己実現を履き違えた生き方をしてしまっている事が原因としてあるのではないでしょうか。
僕はこのような生き方が蔓延する事は、社会全体にとって大きな損失であると思います。
付加価値依存によって高い能力を身につける人も確かにいるとは思いますが、このような生き方は人間の精神を破壊しかねません。

焦って「自己実現しなければいけない」という高い目標を立てて強迫観念で煽る事は危険です。
親や教師を始めそのように人を煽る人というのもまたきっと付加価値依存症であり、自分の劣等性を他人で解消しようとしているでしょう。
しかしそんな不毛な煽りをするよりもまずはありのままの自分に価値があるという感覚を持ってもらう事、そして負の感情を含め感情は極力抑圧させる事なく出せるようにしていく事が大切なのではないでしょうか。
この事を多くの人にもう一度考えてみてほしいなと思います。

続編、というより番外編的な立ち位置かもしれませんが、付加価値を軽視する人について書いてみたのでこちらもお読みください。



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