付加価値依存症だった過去

※今回の記事は前回の記事をお読みいただいてから読んでください。

前回「付加価値依存症」という記事を書いてみたところ新たな疑問がたくさん湧いてきました。
この新たな疑問について掘り下げて書く前に今回の記事では過去の自分が付加価値依存症であったという事を振り返ってみようかなと思います。

僕は今から10年以上前からバンドでボーカリストをやっていました。
当時の僕にとっての付加価値はやはり音楽でありバンドでありボーカリストである事でした。
自分より歌唱力の高いボーカリストが無限にいる中でどうやって付加価値をつけるか?と言った時に単なる歌唱力に特化するより独創性を身につける事を生存戦略としてボーカリストをやっていました。
僕はその生存戦略自体は全く間違っていなかったと思っていますし、今もスタンスとしては同じです。
しかし当時の自分は、ボーカリストとして他の誰にも負けない価値を生み出す事に夢中になりながらも、それが無ければ自分には価値がないんだという感覚にプレッシャーを感じていました。
つまり付加価値無しで自分に価値があると思えなかったのです。

僕はもともとADHD傾向が強く不注意であったり不器用であったり衝動的なところがあったり短所も多いです。
苦手な事が人一倍多く失敗も多い人生だったように思います。
それをただ単にダメな人間と認識する事が嫌だったので、僕は音楽に目覚めたのです。
苦手がいっぱいあっても他に強みがあれば良いだろ!というようなスタンスです。
苦手を補うという意味でむしろ良い考え方ではあります。
しかし僕はそこに対して明確に依存していました。
音楽ができなきゃ自分は終わりなんだ、と。

付加価値依存症に陥っている人は時に自己実現に向かって真っ直ぐ歩んでいるように見えます。
事実、周りからも僕はそう見られていたように思いますし僕自身もそうだと思っていました。
今振り返っても当時の僕は確かに自己実現に向かって一応は進んではいたのかなと考えています。
付加価値を付ける事で昔よりは自分に自信を持つ事もできていたように思います。

しかし付加価値依存症が根っこにある状態では何処かで躓いた時に立ち直れなくなります。
躓いてもすぐに立ち向かうというようなメンタリティにはなれないのです。
躓いた時に自分には価値がないんだという自分自身の自己不信に直面してしまうからです。

僕が付加価値依存症から脱したキッカケとして潰瘍性大腸炎と機能性発声障害を患った事があります。
付加価値依存症から抜け出すには付加価値無しの裸では自分には価値がないんだという体感を得て一度絶望する事が必要でしょう。
僕はこの2つの障害によって明確に絶望しました。
僕は付加価値依存から引き剥がされたのです。
しかしそれを何とか克服したい一心で必死に闘ってきました。
そして皮肉にも克服したい気持ちというのもまた付加価値依存から来るものでした。
付加価値のない自分に価値がないと思っているので、付加価値に必死にしがみ付こうとしたのです。

その中でどう頑張ってもどうする事もできない瞬間、コントロール不能になる瞬間、ダメな自分にならざるを得ない瞬間というのがありました。
そのような瞬間を積み重ねていく中でも世の中というのは特に変わらず動いていくものです。
僕がダメになろうとならなかろうと影響なく世の中というのは動いていくのです。
それが初めはとても苦しかった。
極端に言うのであれば、自分が生きようが死のうが世の中は何も変わらないんじゃないかというような感覚になってしまったからです。

しかし同時に僕が声が出なかろうが体調が悪かろうが僕の事を好きでいてくれる友人の存在にも気付かされました。
当時は潰瘍性大腸炎が重かったので食事制限が厳しい状態でした。
人付き合いにはどうしても食事が付き物で、その度に居心地の悪さを感じてしまい本当は人と食事をするのが大好きなのにそういう機会が減ってしまっていました。
そんな中で僕の為にわざわざ食事制限中でも食べられるお店を探して一緒にご飯を食べに行ってくれた友人には本当に感謝しています。
お店を決める時に僕に何が食べられるかを聞いて選んでくれたり、メニューの中から僕が食べられそうなものを探したり、そういうのが本当にありがたかった。
今は潰瘍性大腸炎は軽症化しているので少し忘れていたけど、書いていたら思い出して少し泣けてきました笑

そうやって周りの人たちの温かさみたいなものを感じながら何とか潰瘍性大腸炎を軽症まで抑え込む事に成功した事で僕の中から少しずつ付加価値依存が消えていったように思います。
ダメな自分でもいいんだ、何かができなくてもいいんだ、とほんの少しずつではありますがありのままの自分を受け入れていったように思います。

また、そもそもこの潰瘍性大腸炎と機能性発声障害自体が付加価値依存症的な生き方による無理によって生じたという風に解釈する事もできます。
発症当時の僕は強迫的に付加価値を求める事で少し無理をしていたのです。
「今の生き方では限界だ」という身体からのメッセージとして病気が起こるなんて考え方もありますが、あながち間違いではないのかもしれませんね。

その後、僕が付加価値依存症から抜け出すキッカケになった出来事がもう一つありました。
それが先日の記事に書いた付加価値依存症の人たちとの付き合いにおけるトラブルでした。
相手の良いと思った所(付加価値)を褒めたら相手にプレッシャーをかけてむしろ付加価値依存症を増長させてしまって相手が病んでしまったという話ですね。
この一件で心理学の本を読み漁って付加価値依存症の存在に気がついて、それを元に自分自身と向き合う事で付加価値依存がさらに解消されてきたという感じでしょう。

このように僕自身が付加価値依存を克服しつつある事も踏まえると、人生を長い目で見るのであればたとえ付加価値依存症があっても克服して最終的に自己実現に向かえるのであれば良いのかなとは思っています。
初めから付加価値依存症にならずに自己実現していく方が確かにスムーズではあります。
しかしそもそも付加価値依存症はありのままの自分に価値があるという土台がない場合に必然的に起こるものです。
その必然性にはある種逆らう事ができないので、一度は付加価値依存症的な生き方をせざるを得ないのかなとは思います。
そこでメンタルを病むなり過労になるなり潰れる事でしか結局のところ付加価値依存症の存在に気づくのは難しいですし、気付かなければそもそも克服のしようもない気がしています。

今回は自分の話ばかりになりましたが、これには理由があります。
それはできるならこういう経験があったんだと踏まえた上で次の記事を読んで頂きたいと思ったからです。
次回の記事のテーマの材料が今回の記事で書いた僕の文章の中にあるので抜粋します。

付加価値依存症に陥っている人は時に自己実現に向かって真っ直ぐ歩んでいるように見えます。

ここで僕が疑問に思ったのは単に付加価値依存症な人と自己実現に向かっている人、もしくは自己実現できている人の差は何かという事です。
少なくとも表面上はどちらも高い目標を追っていてその為に努力を惜しまないという点で近しいように思います。
しかし僕はそれは明確に違うと思っているので、その辺りを解説しながら僕の思想の垂れ流しをしていこうかなと思っています。


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