「我思う故に我在り」から読み解く客観性

久しぶりの更新です。
最近は心理学よりも哲学に興味が向いており、哲学の本を読んでいました。
様々な哲学者の思想に触れながら自分の思想への探究もより深まっていくような感覚がありますが、同時に多様な思想に触れすぎるあまりそれらを整理しきれずに頭の中が混乱するような感覚もありました。
インプットをしすぎてアウトプットが足りなくなっていたのです。
というわけで頭の中の整理がつかない中ではありますが、最近ハマっている哲学の話なども絡めながら久しぶりに記事を更新します。

デカルトの「我思う故に我在り」という有名な言葉があります。
自分自身の存在そのものすらも疑い「私は存在しない」と思ったとしても、「私は存在しない」と思っている私がいる事だけは確かであるという発想から生まれた言葉です。
この言葉をヒントに今回は客観性というものについて心理学的に考え直してみたいなと思います。

物事を客観的に捉える事が大切であるというのは多くの皆さんがよく聞く話だと思います。
しかしながらこの客観的という言葉が誤解を生み、それに振り回されている人がいるのではないかと僕は考えています。
ここでまず客観的という言葉の意味について考えてみましょう。
客観とは主観の対義語で主観ではないという事がまず言えます。
端的に言うのであれば"第三者の視点で見る事"という意味だと考えられます。

しかしここで大きな疑問が湧いてきます。
この第三者とは誰か?という事です。
結論から言うとこの第三者というのは特定の誰かや特定の集団を想定しているものではないと僕は考えています。
たとえばAさんの視点から見たらこうであろうという視点は決して客観的とは言えないのではないかという事です。
確かに第三者であるという条件は満たしています。
しかしこれは第三者であるAさんの"主観"に基づいて解釈しており客観的ではないと捉える事ができます。

この場合「私がどう思うか」よりも「Aさんがどう思うか」を優先しています。
これを僕は他者依存型客観性として解釈しています。
なおこれは厳密には客観性ではないと解釈できるので一見すると客観性がありそうな偽物の客観性として解釈してもらえると嬉しいです。
※ちなみに"自己不在型客観性"という名称も考えたのですが、"自己不在型客観性"にしてしまうと「Aさんがどう思っているかを考えている私が存在している」という事実に反しており、デカルトの「我思う故に我在り」的な構造の沼にハマりそうだなと思ったのであえて他者依存型客観性と表現させていただきました。

他者依存型客観性というものは特定の他者の価値観に判断を委ねていると言えるでしょう。
あのAさんが言う事なのだからきっと正しいはずであるというような発想です。
この発想というのは一言で言うのであれば依存です。
自分の頭で考える事を放棄しているのです。

またこの他者というのが特定の個人だけではなく何らかの集団や組織である事も想定できます。
分かりやすい例で言うのであれば宗教です。
たとえば「◯◯教ではこれは悪い事とされているからこれは悪い事だ」という主張などがそうです。
その主張の根拠というものが他者(正確には他者が作り出した思想)に依存しているので、これもまた他者依存型の客観性として解釈できるでしょう。

では他者に依存しない客観性というのは何でしょうか。
他者に依存しないというのはつまり自分の頭で考えるという事です。
先ほど客観的=第三者の視点と書きました。
にも関わらず自分の頭で考えるという一見主観的に見える発想に行き着くのは何処か矛盾しているように感じませんか?
これが客観的という言葉がややこしく勘違いされやすい点なのです。

確かに自分自身の個人的感想などによる主観で判断する事は客観的ではありません。
(時に単なる個人的感想が合っているという事もあり得ることではありますが)
たとえば自分が不快だと思ったから悪であるなどの主張はまさに主観的であり、客観性を欠いていると言えるでしょう。

元2chの管理人として有名なひろゆきさんがとある番組で使った「それってあなたの感想ですよね」という有名な言葉があります。
この言葉は意見を述べる場において客観的事実に基づかない単なる個人的な感想を根拠に意見を述べた事に対する反論の言葉として解釈できます。
しかしここで勘違いして欲しくない事が一つあります。
「それってあなたの感想ですよね」という言葉は相手の「我思う」という感覚そのものを否定する言葉であるとは限らないという事です。
思う事そのものを否定しているわけではないのです。
思う事そのものの否定であれば、"ひろゆきさんが「それってあなたの感想ですよね」と思った事すらも否定される"という話になってしまいます。

世の中では意見を言う時に一定の客観性が求められるという事を多くの人はなんとなくでも分かっていると思います。
しかしながら客観性というのは決して「我思う」の感覚を否定しているわけではないという事です。
むしろこの「我思う」の感覚を否定する事が客観性を喪失させるのではないかと僕は考えています。

「我思う」の感覚を否定するというのはつまり過去の記事でしつこいくらいに書いてきたアイデンティティの喪失(以降、自己喪失と表現します)に繋がります。
自己喪失とは"私が思うという行為そのものを否定する"という感覚が慢性化する事によって何を思うのかすらも分からなくなっている状態と言えます。
親であったり学校や会社などで出会った人たちであったり自分以外の他者によって自分が思う事を否定されるという経験によって無意識に「我思う」を否定する感覚が慢性化しているのです。

特に幼少期から思春期あたりにおいての他者との関わりは大きく影響します。
いわゆる毒親的な親との関わりであったり、学校などでのイジメというものによって人間に本来備わっているはずの尊い「我思う」の感覚を否定されてしまうのです。
彼らは「我思う」という感覚に対して第三者の偏ったネガティブな解釈が付随してきてしまうのです。
その為「我思う」の感覚そのものに対して拒絶感を示します。
そして「我思う」の否定が根っこにある人は客観性があるという事を特定の他者の主観(親や過去に自分を否定してきたいじめっ子や社会の常識など)に囚われる事と誤認しているように感じます。

その為、意見を言わなければいけない場面など客観性が求められる時にその状況そのものに対して不快感であったり否定的な感情を持ちやすくなります。
何故ならそのシチュエーションそのものが彼らの過去の人との関わりにおいてのトラウマ化した嫌な記憶を思い出させてしまう可能性があるからです。
これは過去に「感情論は感情を大事にしていない」という記事で書いた内容と同じ事です。

"感情を大事にしていない"というのはすなわち「我思う」の否定という事です。
自分が思っている事を尊重しないというセルフネグレクト的な状態が当たり前になっているのです。
これは逆に考えてみると「我思う」の感覚を尊重する事が「我在り」という感覚を強められるという風にも解釈する事ができます。

さてここからは「我思う」の感覚を尊重するとはどういう事であるかを考えてみましょう。
「我思う」の感覚を尊重するというのは自分が何を思っているのか、なぜそう思ったのか、その思っている事は果たして事実であるのかを探究するという事です。
平たく言うのであれば自分と向き合うという事です。

では自分と向き合うという事はどういう事でしょうか。
ここでもまた「我思う故に我在り」という言葉がヒントになってきます。
自分と向き合うという事は思っている"私"に対してまた"私"が思うという事なのです。
「私はこう思う、しかしなぜそう思うのだろうか?」という自問自答、これこそが思う私に対して私が思うという終わりのない探究なのです。
思う私について思う私がいてそれに対してさらに思う私がいるという無限に続く自問自答、これこそが「我思う故に我在り」の真髄ではないかと捉えています。
この感覚は東洋的に言うのであれば"輪廻"という言葉でも表せるかもしれません。
終わりがないのです。

ここで僕が1番伝えたい事は「我思う」の上にさらに「我思う」を積み重ねていく連続性によって「我在り」の感覚が強まっていくという事です。
自分自身の感情を大事にしていないと感情論になるという過去の記事で書いた僕自身の主張を捉え直してみるとこれは「我思う故に我在り」を逆説的に表現しているなと感じます。
「我思う」の否定は「我在り」の否定になる、つまり心理学で言うところの自己喪失に繋がるという事です。
自己喪失というのは主語の喪失を意味します。
この辺りは過去に書いた「主語を喪失した自他境界の弱い人」という記事に詳しく書いてあります。

それはすなわち「我思う」を喪失する事によって「我思う故に我在り」の原理が成立しなくなってしまうという事です。
そしてそのような人は何か意見を言ったとしてもそれを言っているのが誰であるかが不透明な状態になります。
これがまさに主語の喪失なのです。
「◯◯はこうである」と話している"私"の存在が感じられなくなるのです。

そして自己喪失した人はその喪失された自己を他人で埋めようとしてしまいます。
つまり誰か特定の個人の意見や会社などの組織の思想的なものをあたかも自分で考えた自分の意見として解釈するようになったりしてしまうという事です。
これが先述した他者依存型客観性になります。

そして自分自身の「我思う」を否定する人というのは他者の「我思う」に対しても否定的に解釈しがちになります。
つまりその人が「我思う」を否定するようになったキッカケとなった親であったりいじめっ子などもまた自身の「我思う」を否定している人であるという事です。
そしてこのような他者の「我思う」の否定もまた他者依存型客観性なのです。
「我思う」を否定された人が他者の「我思う」を否定する事で自身と同じ状態にしようとするという悪循環なのです。

なお厳密には自己というものは少なくとも生きて意識がある限りにおいては失いようがないと僕は考えています。
ただ本人が存在を感じられなくなる事、自分自身が透明な存在であるかのように感じてしまう体感が自己喪失であると解釈しています。
その存在を感じられなくなるというのはつまり「我思う」の否定による「我在り」という感覚の喪失です。
これはあくまでも感覚の話であるという事は重要です。

デカルトの「我思う故に我在り」という命題の本質は"思っている私がいるという事は否定しようがない"という気付きにあります。
説明する都合で自己喪失という言葉を使ってはいますが、実際には自己を完全に喪失しているわけではありません。
"思っている私がいる"が成立するという事は、厳密には自己を完全に喪失しているわけではないのです。
そしてそれは自己を喪失していると感じている私がいる事だけは否定できないからです。
自己喪失感があるという言葉の方がより正確でしょう。

この何かを感じている私を尊重する事(=我思うの肯定)が人間の精神の成熟においての重要な土台であると言っても過言ではありません。
そしてこれが本当の意味での自尊心であり、自己受容の精神ではないかとそう思うのです。
どんな自分でも自分は自分であるとまず受け入れるという自己受容の精神はまさに「我思う」の肯定と解釈できるのではないでしょうか。

さていったん話を客観性というテーマに戻します。
これまで伝えてきた事を簡単にまとめると「我思う」の否定がある(=自己喪失感がある)と客観的になろうとしたところで他者依存型客観性に陥ってしまうという話でした。
では「我思う」を受容し肯定する感覚があり、「我在り」の感覚が育った人にある客観性とは何でしょうか。
これを僕は自己主体型客観性として考えています。

まず大切なのは客観性というものは自己が主体となっている必要があるという事です。
人間は「我思う(英語で言うのであればI think)」という感覚から逃れる事はできません。
客観的な判断というものは様々な客観的事実に基づいて生まれますが、最終的にそれを判断するのは自分以外あり得ないという事です。
たとえば統計などをもとに主張する場合であれば、統計という客観的事実を見る「私」がいてその「私」が判断を下すという事です。

つまり誰もこの「私」から逃れる事はできないという事です。
これぞまさに「我思う故に我在り」の感覚なのです。
そしてこの「私」から逃れる事なく私が私を見ようとする意思を持って生きていく事がアイデンティティのある人の生き方なのです。

以前「アイデンティティの統合」という記事においてこのように書きました。

アイデンティティを統合するというのはこの多様な自分を丸ごと自分という一人の人間であると感じられるようになる事です。
確固たるアイデンティティの確立というのは自分のある種の多面性を丸ごと受け入れてどれも自分であり、どれも自分が主導権を握っていると感じられる状態と言えるでしょう。

多様な自分を統合する事でどんな自分であってもどれも自分であり自分を操縦しているのは自分自身であるという人生に対しての主体的な感覚を手に入れる事ができます。
これこそがまさに「我在り」の感覚を持っている状態であると言えるのではないでしょうか。
そしてこの状態の人というのは自分自身を俯瞰して見る事ができるのです。

たとえば複数の人たちが森の中にいるとして一枚の葉っぱだけしか見ていない人、一本の木だけを見ている人、林を見ている人、森全体を見ている人がいるとします。
その中で1番自分たちがいる森をよく見ているのは当然ながら森全体を見ている人でしょう。
俯瞰とはより広い視野で見るという事です。
もっと言うなら森の外に街があったり海や川があったりする、そしてもっと遠くから見たらそこは実は島であったりする。
最終的には宇宙から見た地球に辿り着き、では宇宙を見ているのは誰か?というような人間には想像もつかないような無限の思考が続いてしまいますが。
そしてこれを"私を見る"というテーマに変えてみると非常に分かりやすいです。

人には多面性があります。
そして喜怒哀楽があります。
優しいところもあるが厳しいところがある事もあります。   
そしてある時はとても強くたくましく、ある時はとても弱気で泣き虫であったりします。
この時、喜んでいる自分や楽しんでいる自分や強くたくましい自分など特定の良い自分だけを見たらどうなるでしょうか。
そのような見方は森の中で一枚の葉っぱだけを見るのと同じ事ではないでしょうか。

この場合「我思う」の一部に制限をかけていると解釈します。
つまり「悲しい」とか「腹が立つ」などネガティブな感情を感じる事そのものを良くない事として他人事にしているという事です。
これを僕は部分的自己受容などと呼んでいます。
つまりポジティブな部分だけを受容しているという状態の事です。
そしてこの部分的自己受容は同時に部分的自己否定をしているとも解釈できます。
なぜならネガティブな感情を抱える自分の「我思う」の感覚を無視しているからです。
これも立派なセルフネグレクトなのです。

このような部分的自己受容兼部分的自己否定によって自分という存在がボヤけて自己矛盾が生じてしまうのです。
俯瞰というものはこのように自分自身をほんの一部分だけで解釈している限りは到底得られるものではないでしょう。

何故なら客観性がある状態というのは、ポジティブな面もネガティブな面も含めてあらゆる多様性を踏まえた上で"自分が"どう思うかを考える必要があるからです。
無論、あらゆる要素を完璧に見て判断するという事は実質不可能ではあると思いますが、しかしそれでもできる限り多くの視点と広い視点で捉える事が客観性に繋がるという事です。

もし仮に真理というものがあるのだとすればこの「我思う」の繰り返しをし続けたはるか先に存在しているのではないかと思えてなりません。

最後に今回の内容と関係が深い記事を紹介しておきます。

この記事で書いた自分を過度に責める人や逆に責任を他人に転嫁する人というのも「我思う」を否定している人として解釈できそうだなと思っています。
自分を過度に責める人は特定の他者の価値観に囚われて自分を責めているという他者依存状態に陥っており、「我思う」の否定が根っこにあると解釈できます。
主語が自分なようにも見えますが、実は他者を軸に自分を責めているという点で客観性には乏しい状態と言えるでしょう。

そして責任を他人に転嫁する人というのは基本的に「お前が悪い」の一点張りです。
主語が全て「お前」になっている状態なのです。
そしてこれは同時に"非を感じている自分"を否定しているという風に解釈できます。
つまり自分に非があれば終わりだというような差し迫った強迫観念があるのです。
そしてそれは部分的自己受容とそれに伴う部分的自己否定によるプレッシャーが根っこにあると解釈できます。
本質的価値(=無条件に自分に価値があると思える状態すなわち無条件の愛の感覚)を喪失し、付加価値(=ステータスや容姿などに依存した条件付きの愛)を追い求める付加価値依存症の話とも繋がってきます。

だいぶ長くなりました。
哲学の本を読むようになってから今書いている記事が過去の記事と繋がっているという感覚がますます増しています。
過去の記事とリンクさせながら過去を振り返り統合して自分自身や以前から読んでくれている方の感覚も整理されて統合へ向かうのであれば良いなとそう考えています。
情報量が多すぎてパンクしそうにはなりますが、こんなスタンスでこれからも書いていこうと思いますので応援よろしくお願い致します。

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