主語が他人になる自他境界の弱い人

以前から何度もアイデンティティについての記事を書いてきましたが、最近一つ気がついた事があります。
アイデンティティを喪失した人やアイデンティティが弱い人というのは主語がすぐに他人になってしまうという事です。
どういう事かというと自分の話をする場面で主語が他人であったり別のモノになってしまうという事です。

「自分がどうしたいか」
「自分はどう思うか」
「自分はどうして欲しいのか」
こういう場面においてどういうわけか他人の話をしてしまう。

例えば進学についてあなたはどうしたいのかを聞かれたとして、この学校はこういう学校だから等の話を始めます。
この場合、主語が学校であってもこの学校はこういう学校だから自分に合うと思う等の終着点であれば大きな問題ではありません。
ところがアイデンティティの弱い人はこういう場面で自分の話を決してしないのです。

これは日本語において主語が省略されやすいという事も関係しているのかもしれません。
日本語に比べて主語が明確な英語であればもう少し分かりやすいかもしれません。
例えば「Do you like tennis?」と言われたとして返答はI(わたし)が主語になります。
ところがその返答において主語がtennisになってしまうというような状態に近いのかもしれません。

また英語でもう一つ説明に役立ちそうだなと思ったのが「I think」です。
「I think」で"私は思う"と来た後に私がどう思うかという話が来ます。
日本語だと「私は思う、あなたは◯◯であると」というような文章になります。
ところが日本語においてはこの「I think」の部分は省略されがちなのではないでしょうか。
つまり自分が主語になる場面が少ないのではないかという事です。
※なお僕は英語があまり得意ではないので、あくまでも例え話として大目に見ていただけるとありがたいです。

このような現象は過去に書いたこちらの記事の内容も参考になる部分があります。

こちらの記事では自分に非があるにも関わらずそれを他の人のせいにしたりするというような現象について書いています。
つまり主語が自分になる事を避けて他人を主語にして他責(あるいは他罰)をするという事です。
これはつまり自分に目を向けたくないという心理の現れです。
自分に非がある場合においてこれはよくある話ではないでしょうか。

しかしアイデンティティが弱い人は自分に非がある場合でなくともこの現象が起こりがちです。
そしてこれはほとんど無意識に行われています。
何らかの理由でアイデンティティを喪失したりアイデンティティが弱くなっている場合、自分がどうしたいのかが分からなくなるので、知らないうちに自分の話をしなくなるのです。
自分というものをどこかで他人に委ねようとしてしまいがちです。

例えば親が過干渉•過保護で本来子供がやるべき事や考える事をなんでもやってしまうとか何かをやろうとしたり自分の意見や気持ちを伝えると否定されるなどの土台がある場合に起こりやすい現象です。
その他、イジメなどによって"自己表現すると酷い目に遭う"という経験が染み付いてトラウマになっている場合にもこのような現象が起こりやすくなります。

自分の話なのか他人の話なのかが明確でなくなるというのはつまり自他境界が弱いと言えます。
容易く他人から影響を受けてしまう、あるいは他人に自分と同じ感覚を求めすぎてしまうなどが自他境界の弱い人の特徴です。
ここからが自分でここからはあなたという事が分からず、境界線を明確に引く事が難しいのです。

たとえば激しい音楽が苦手な人が激しい音楽好きな人に対して「激しい音楽が苦手なんだよね」と伝えたとします。
ここで自他境界の弱い人は「激しい音楽を好きである自分」というものを否定されたという風に受け取る可能性があります。
自分と相手の好きなものや嫌いなものが違うという場合に不安になってしまうのが自他境界の弱い人という事です。
誰かと一緒でないと不安になってしまう、そして好きな人や距離の近い相手に対して自分と同じである事を求めてしまいがちなのです。

またSNSなどで自分とは全く無関係な人の発言にダメージを受けやすいのも自他境界の弱い人の特徴です。
芸能人などの不祥事に対して怒りのメッセージを投稿するのもそういう人です。
不倫された人がいれば、自分が不倫をされたら辛いからという理由でその人に感情移入して不倫をした人をボロクソに否定する。

しかし本来であればそれはあくまで当事者の問題です。
個人の感想を述べるという範囲を越えなければ感情移入するのも自由かもしれませんが、全く無関係の他人の問題に首を突っ込んでしまう人がたくさんいます。
それをたとえばHSP(繊細な人)だと自称して共感性があるとプラスに解釈する風潮があったりしますが、それは繊細で共感性が高いからではなくただ単に自他境界が弱いからではないかと思っています。

また他人の幸せや優秀だったり活躍している他人を見る事によって自分が焦りを感じたり不幸になっているかのように感じてしまい、相手に対して攻撃的になってしまうという現象も自他境界が弱い人に見られる傾向があります。
あるいは他人を支配しようとモラルハラスメント的な行動に出る人も同様です。
あらゆる問題が実はアイデンティティの喪失から来る自他境界の弱さと関係していると言えるでしょう。

以前このような記事を書きました。

ざっくり言うとこちらの記事では「自分の感情を大事にしていない人ほど感情論に走りがちである」という事を書いています。
このような人は自分の感情を受け入れていない、自分から湧いてきた感情を切り離して蓋をしています。
しかしながら蓋をした感情というものは簡単に無視できるものではありません。
感情に蓋をするという事は自分を無視するという事でそうすると主語が自分じゃなくなりやすいというのはなんとなく想像がつきやすいのではないでしょうか。

主語がいつの間にか自分ではなくなっている人というのは自他境界が弱い、そして自他境界が弱い人は主語が何なのかを重視してみるというのが良いのではないかと思っています。
それは最終的に自分に意識を向けるという事になります。
相手の事が好きだとかムカつくとかあの人のこういうところはどうかと思うと言った時に、そう思う自分について注目してみる必要があります。
なぜ自分はあの時腹が立ったのか、なぜ自分はあの人の事が好きなのか等の自問をする癖をつけると良いのではないかと考えています。

そしてその自問に対しての答えは良いも悪いもないという認識でいる事が大切です。
結論を良いか悪いかに持っていこうとするとアイデンティティの弱い人は大抵の場合は悪いに持っていきがちです。
アイデンティティが弱いというのは確固たる自分がない状態でその状態というのは不安を生みます。
それはアイデンティティを確立する前、つまり思春期頃にメンタルが不安定になりやすいのと同じです。
不安な人が良いか悪いかの判断をしようとすると悪いという結論に偏って持っていきがちになるので、あくまでも自分がどう感じているかを探ってそれに対して良い悪いの評価をつけない事が非常に大切です。
この姿勢が自己受容の感覚を育ててくれます。

頭の中でぐるぐる考えてよく分からなくなるという人は紙などに書き起こしてみるのも良いでしょう。
書き起こしたものは誰かに見せなくても良いでしょう。
もちろん専門家であったりあるいは信頼できる人がいればそれを見せてみるのも良いかもしれませんが、誰かの目線というものを気にすると本心から遠ざかる場合が多いのであくまで自分のために書くというのが大切です。
また必要があれば専門家の力を借りてカウンセリングを受けるのも良いでしょう。

なお最近書いた記事を含めアイデンティティに関しての話題が非常に多いので、新たにnoteのカテゴリにアイデンティティという物を加えようかなと思います。

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